環境倫理教育と生命倫理教育−〈モード2教育〉としての「総合的学習」の必要性−

Environmental Ethics Education and Bioethics Education: Necessity of "Mode2 Education" for "Comprehensive Learning"

井上 兼生 Kaneo Inoue
埼玉県立大宮中央高等学校 Omiya-Chuo High School

Email: bxs05622@msi.biglobe.ne.jp

pp. 40-48 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
[要旨]環境や生命をテーマとする「総合的学習」を,今後の中等教育において意義あるものとするためには,「モード2教育」という概念によって,現代の知的活動全体の動向を踏まえた理論的基礎づけを行うことが必要である。そうした視点から,環境倫理教育の課題,生命倫理教育との連携の重要性などについて論じる。

キーワード: 総合的学習, モード1, モード2, 環境倫理学
1.はじめに

(1)現代社会の〈倫理〉と高校「倫理」との乖離

 現代ほど〈倫理〉が重要な課題となっている時代はないだろうといわれる。特に,生命科学・先端医療技術の急激な発達と,科学技術文明の引き起こした地球環境の危機,といった状況を背景として,生命倫理,環境倫理などと呼ばれる新しい倫理問題が,差し迫った重要性を帯びて浮上してきたことは周知の通りである。

 そうした状況を考えると,高校科目の「倫理」が,生徒にとって(そして,教員にとっても)最も軽視・敬遠されがちな「お荷物」科目になっているという事実は,もっと重く受け止められてしかるべきであろう。

現代社会の課題としての〈倫理〉と,高校「倫理」との大きな乖離をどう修復していけばいいのか。公民科の「現代社会」と「倫理」を担当するなかで,私もこの問題にぶつかって試行錯誤を繰り返してきた。十年ほど前からは,生命倫理と環境倫理を積極的に授業に導入することによって,単なる知識として思想史のダイジェストを紹介するのではなく,現実の問題を考えるための手掛かりを生徒に提起できないかと考え,授業実践を試みてきた。

(2)「応用倫理学」

高校教育だけでなく,大学アカデミズムにおいても,現実の〈倫理〉問題と伝統的「倫理学」との乖離は深刻な問題として意識されるようになっている。そうした倫理学の状況に対する反省から,英語圏を中心として,この二十年来,環境倫理学,生命倫理学のみならず,ビジネス・エシックス,情報倫理学などの分野をも含んだ「応用倫理学」(applied ethics)と総称される分野が,大きな進展をとげつつある。日本でも,生命倫理学は1980年代末から,環境倫理学も90年代前半から紹介・研究が続けられてきた。

(3)大学アカデミズムの現状

 科学史・科学論の米本昌平氏は,現実問題に対する「去勢状態」が,日本の大学アカデミズム全体におよぶものであることを指摘する。著書『地球環境問題とは何か』(中公新書)の中で,米本氏は,「日本の大学アカデミズムが全体として,現代社会が直面する重要課題に真摯に取り組んでこなかった」ことを,大学凋落の一因に挙げている。そして,かりに地球環境問題を日本の国際貢献の柱にしようとする場合,大学アカデミズムの現状が最大のネックになるだろうと指摘し,その根本的なリストラ(解体再編)を主張している。

地球環境問題に象徴される多くの難問に人類が直面し,猶予はないという危機感が強まるなかで,米本氏に限らず,わが国の旧態依然たるアカデミズムへの不満が噴き出しているようである。

(4)「モード1」と「モード2」

 こうした現状を乗り越えようとする動きも,各方面で現れ始めているが,その中で最も注目すべきなのは,「モード2」という考え方であろう。

 「モード」(様式)という概念は,マイケル・ギボンズらによって,現代の科学技術や知的活動一般のあり方を総合的視点から捉えるために提唱されたものである(1)。それによれば,専ら狭い専門領域内での閉じた活動として営まれる従来の科学研究の様式は「モード1」と呼ばれる。これに対し,一般社会に開かれた新たな様式が「モード2」である。この二つの様式の対比は,自然科学分野にとどまらず,自然科学を範として発展してきた社会科学や人文科学の分野にも当てはまるとされる。

 モード1では,各領域の内的論理や関心によって研究活動が進められる。研究成果は学会や学術雑誌などに発表され,その評価も同じ領域の専門家が行う。研究成果が専門家集団の外部に広く公開されることは少ない。科学研究者は専門知識の特権的保有者であり,一般人は啓蒙の対象にすぎないとみなされる。研究者は,科学の中立性を盾に,自らの研究成果がどのように応用され社会的影響を与えるかという問題に対し,自分の責任の範囲外という態度をとることが許されてきた。このように,専門家集団と一般人との関係が一方通行で対話が成り立たないだけでなく,専門分化が極度に進行した結果,隣接領域の専門家同士の対話も困難になってしまった。

 しかし,一方で,科学技術の社会に与える影響は,かつてとは比較にならないほど巨大で複雑なものとなっている。科学技術研究者は専門領域に閉じこもることなく,政治,経済,教育などさまざまな社会的活動と密接に連携しながら現実の問題と取り組むべきだという社会的圧力の高まりによって,科学技術は根本的な変容を求められている。

 モード2は,こうした時代の要請に応えるものとして登場した。したがってその特徴は,内部指向から外部指向へ,好奇心主導型から問題解決型へ,と表現できる。モード2では,緊急性を要する現実の問題がテーマとして設定される。そして実効性のある解決策を提示するために,多様な領域の専門家の参加と連携が求められる。自然科学系だけでなく,人文・社会系の専門家,企業,行政,教育などの分野の専門家,さらに市民も参加する必要がある。したがって,知識活動の拠点は分散的になる。研究成果だけでなく問題設定や解決策の選択肢なども一般社会に公開され,その評価を受けることが当然となる。そのため,社会的アカウンタビリティ(説明責任)が不可欠となる。

 これまで,地球環境問題などの議論では,近代科学文明の「パラダイムの転換」などといった表現がしばしば用いられた。しかし,トマス・クーンが科学思想史の文脈で提起した「パラダイム」という概念を,文明全体の「知の枠組み」の意味にまで拡大し,意識的に転換が可能であるかのような操作的な概念として用いることには無理があった。科学技術固有の領域を超えた知的生産活動全体を規定するものとして「モード」という概念が提示されてみると,「パラダイム」という語の通俗的用法は,「モード」の代用品の役割を果たしていたのだという気がしてくる。「モード」論では,クーンのパラダイム論は,モード1科学に適用される理論として包摂されることになる。

 モード概念が1994年に提起されて以後,急速に注目を集めるようになったのも,それがまさしく時代が求めていたものだったからに他ならない。

 モード論の観点に立てば,環境倫理学と生命倫理学も,それぞれ環境問題や医療・生命科学技術問題に対する「モード2」的取り組みを倫理的側面から捉えたものとして位置づけることが可能となる。

(5)「モード2教育」の必要性

 モード論についてやや詳しく紹介したが,それは,この紀要全体のテーマである生命倫理教育や,この論文のテーマである環境倫理教育と,「総合的学習」との関連について,基本的視点を提示するものと考えるからである。

 モード2においては,教育も研究と連携する重要な活動となる。

 従来の教科教育は,基本的に,モード1科学の閉じた個別専門領域にそれぞれの教科・科目が対応するという意味で,「モード1教育」と呼ぶことができよう。

 それに対し,モード2科学に対応する教育を「モード2教育」と名づけるとすれば,それは,モード2の諸特徴をそなえたものとなる。まず,環境,生命,情報など,モード2的なアプローチが不可欠な分野がそのテーマとなるだろう。また,モード2教育は,複数教科の教員の緊密な連携を重視し,知識伝達よりも問題と取り組む能力の育成を目指すものでなければならない。地域社会など学校外部との相互協力も重要となる。

 「総合的学習」を,今後の中等教育において意義あるものとするためには,モード2教育という概念によって,現代の知的活動全体の動向をきちんと踏まえた理論的基礎づけを行う必要があると考える。

 21世紀の学校教育における最大の課題の一つが環境教育であることは間違いない。しかし,現実の高校教育は,大学入試を通して大学アカデミズムの強い影響下に置かれている。日本が本当に地球環境問題に取り組もうとした場合,大学教育と高校教育のあり方を,モード2という視点から抜本的に捉え直すことが不可欠となるはずである。

 以上に述べたような問題意識に立った上で,以下においては,高校教育のレベルでの,環境教育の現状と問題点,環境倫理教育の課題,生命倫理教育との関係などを考察してみたい。

2.環境倫理教育の現状と問題点

(1)高校生の「サイキックナミング」状態

「核兵器の巨大化によって始まった全世界的なサイキックナミング(psychic numbing 心的無感覚)は,より深刻な地球環境問題を通して重く我々にのしかかっている。環境危機がダモクレスの剣のように目の前にぶらさがっているのに,人々は,その本当の巨大さ・恐ろしさを見ることを避けている。」

 これは,作家・大江健三郎氏と評論家・立花隆氏の対談の中で,両氏がともに指摘していたことである。

 授業で地球環境問題を取り上げながら,ときどき強く感じたことが一つある。それは,一見この種の問題にうんざり顔をしているような高校生たちのほうが,地球の調整能力が限界に近づきつつあることの深刻さを,柔軟な感性で敏感に嗅ぎ取っていて,大人たちよりも重症のサイキックナミング状態,あるいはパスカルの言うようなディヴェルティスマン(divertissement 目をそらすこと,気晴らし)に陥っているのではないか,生徒たちのシラケは一種の心理的防衛反応ではないか,ということである。

もし生徒たちがそのような状態にあるとしたならば,現在行われているような環境教育は,やればやるほど生徒たちを人間否定・自己否定に陥らせる危険性があると考える。

(2)これまでの環境倫理教育の問題点

 現行の普通科の授業では,科目「生物」で,生態系の「複雑なメカニズム」と「微妙な均衡」が生態学的に説明され,「現代社会」では,もっぱら自然破壊・環境汚染の深刻な状況が現象としてのみ提示される。そして「倫理」では,「人間と自然との共生の追求」や「環境保護に向けての倫理的自覚」が説かれる。しかし,これらのことを,脈絡なくバラバラに教えられた場合,現実の人間活動が「微妙なバランスのうえに成り立つ生態系」に対して行っている破壊行為の数々を考えてみれば,個人の自覚だけで自然との共生を実現しろという不可能な事を要求されているように生徒が受け取っても当然ではないだろうか。それは,「人間は地球生態系のガン細胞であり,地球環境を救うためには人類が滅亡するしかない」といった〈人類という種のレベルでの自己否定,ニヒリズム〉へと生徒を追い込むことでしかない。

 高校生を対象としたアンケート調査で,人間を「地球のガン細胞」とする生徒が35パーセントにも達するというデータが,このことを裏付けている(2)。

 この問題に関しては,科学社会学・環境論の鬼頭秀一氏が同様のことを指摘している(3) 。鬼頭氏は,「見事にバランスがとれている」生態系に対して,人間をそのマイナスの「攪乱要因」としか捉えられないような立場を,「人間非中心主義」的陥穽と名付け,これをどう乗り越えるのかが環境教育における重要な課題の一つであると指摘している。そうした視点から見た場合,総合的視点と科目間の連携を欠いた現行の「環境教育」は,大きな欠陥を抱えていると思われる。前述のモード論との関連でいえば,それは,モード1教育の次元での環境教育の限界を示しているといえる。環境教育は,モード2教育の次元で行われなければならないのである。

 環境教育とは,当然のことだが,生徒を人類という種のレベルでの自己否定,ニヒリズムに追い込んで終わるものであってはならず,環境問題解決に向けての建設的な展望の提示を目指すものでなければならないはずである。そして,そこに環境倫理の役割もあるはずだと考える。

 二つめの問題点としては,「個人の倫理的自覚」「足元からの行動」のみが強調され,「地球規模での環境問題の克服」という,かけ離れたレベルへと橋渡しするための説明・論点が提示されていない点が挙げられる。「地球規模で考え,足元から行動しよう」というスローガンを短絡的に解釈したような論理の飛躍がみられる。「私の足元からの行動」が「地球規模の環境問題の解決」にどう結びつくのか,本当に結びつくのか,という疑問を誰もが漠然と抱いている。ところが,この二つのかけ離れたレベルを論理的かつ具体的に橋渡しする説明ないし論点が全く提示されていないのである。

 それでなくとも,まわりにあふれる地球環境論議には,話が大きすぎるために,抽象的な理想,建て前,欺瞞が多すぎて,生徒はうさん臭さを感じている。そこへ,「自然と人間が共生できるような文明の在り方について,われわれは深く考えていかねばならない」といった紋切り型で終わる教科書の文章を読ませただけでは,生徒は,シラけてしまうだけである。

 こうした点をついた,ビ−トたけし「『地球にやさしく』なんかできない」(新潮文庫『みんな自分がわからない』所収)と,それを取り上げた朝日新聞の社説「ビ−トたけしと地球環境」(1992.6.18) を生徒に読ませて小論文を書いてもらい,反応をみたことがある。「『地球にやさしく』なんかできない」は,「地球サミット」が開かれた1992年,マスコミや政財界が地球環境保護の大合唱を繰り広げていた真っ最中に,ビ−トたけし氏が,彼一流の毒舌を「地球サミット」から自然保護運動まで,環境保護のあらゆる面に浴びせかけ,大きな反響をよんだものである。

 その批判のポイントは,「今の生活をしながら,なおかつ自然を守ろうというのがそもそもいかがわしいんだよ」という点にあるが,たけし氏が見透かしたとおり,当時の環境ブームは,バブル経済の崩壊とともに,あっさりしぼんでしまったのである。生徒の反応は,「言いたいことがすべて言われているようで気分がスッキリした」といった,たけし氏の主張を全面的に支持するものがかなり多かった。

3.環境倫理教育の課題

(1)モード2教育の視点

 以上に見てきたような,現在の高校における環境倫理教育の問題点は,総合的視点に基づく科目間の連携が欠落した形態の中で内容が構成されていることに大きな原因がある。

以下では,モード2教育の視点に立って,生態学や経済学などの最新の研究を取り込みながら,環境倫理教育の課題について考察してみたい。

(2)生態系における人間の位置づけ

 先に指摘したように,従来の環境倫理教育の最大の問題点は,地球生態系における人間の役割・存在意義を考察させる手がかりがまったく提示されていないという点であった。そのため,生徒は,「人間は地球のガン細胞なのだから滅亡して当然」という否定的認識から抜け出せないまま放置されることになる。このように,環境問題の入口の手前でシラけ,思考を放棄している状態から生徒たちを抜け出させ,環境問題の議論・思索へと導き入れることが,まず最初の課題となる。

 この問題に関しては,たとえば,生物学者・柴谷篤弘氏の指摘(4) が参考になる。柴谷氏によれば,かつての生態学では,生態系は安定なものであり,系全体の安定性は,系のすべての成因の相互関連性・相互拘束性によって保たれる,と考えられていたという。このように,生態系の安定性や調和のとれた平衡が信じられていた時代には,自然保護の目標は,生態系の現状の固定化ということになる。その場合,人間の介入,人為は,極力排除されるべきマイナスの攪乱要因と位置づけられる。

 しかし,最近の研究によって,生態系は安定なものでも,安定をめざすものでもなく,その特徴は「変動する多様性の持続」にあることが明らかにされてきたという。

 したがって,自然保護の目標も,現状の化石化ではなく,「多様性の生成機構の保全」ということになる。そして,この生態系の多様性を保証してきたのは,文明以前は自然,文明以後は自然と人為による「適度な攪乱」だったというのである。

 「攪乱の頻度が少なすぎても,過度にすぎても,生態系は単純化するが,中規模の攪乱によって,ある範囲の時間で多様性が増加し,かなりの時間持続することになる」

 この説は,生態学においては,「中程度攪乱説  (medium disturbance theory)」と呼ばれているという(5)。

 地域生態学(ランドスケープ・エコロジー)を基礎とした環境創造の理論を提唱する竹内和彦氏も,生態学のパラダイムが世界的に大きく変化しているといい,そのカギとなるのが,自然,人間両方にまたがる「攪乱」であるとしている(6) 。そして,人為が生態系内の多様性を高めることもあるというのである。

 ところで,このような生態系のダイナミズムや,そこにおける人間の活動の役割を,エントロピー論の視点から探究したものとして注目したいのが,物理学者・槌田敦氏の提唱する「物質循環論」である(7) 。人間の主体的な活動が,物質循環を利用して生態系を豊かにできる可能性を示そうとするものだからである。物質循環論の立場では,人間と人間社会は,生態系への責任主体と捉え返され,物質循環を積極的に豊かにするという役割が与えられる。人間の地球における一つの存在意義が示されるのである。

文明というと,メソポタミアのように,自然の多様性を破壊したケ−スばかりが強調されるが,適切な人為による管理は,自然の植生を若返らせる。槌田氏が指摘する江戸時代の武蔵野のように,文明が生態系の多様性を大幅に高めたケ−スも存在するのである。こうした生態系における人間の積極的役割の可能性・存在意義を具体的に示し,考察させることが,環境倫理教育という面からは是非とも必要であろうと考える。

(3)地球環境問題が抱える構造的問題

 先に見た,これまでの環境倫理教育のもう一つの大きな問題点として,「個人の倫理的自覚」,「足元からの行動」のみが強調され,「地球規模での環境問題の克服」という,かけ離れたレベルへと橋渡しするための説明・論点が提示されていないという問題があった。この問題を生徒に考えさせるためには,政治・経済制度など社会科学的視点からのアプローチが不可欠となる。

 環境問題にも詳しい立花隆氏は,次のように強調する。

 「一つだけいっておきたいことは,環境問題というのは,心の問題に置き換えたり,人々の善意を結集するという方法ではけっして解決しないということです。やはり,人類総体を網にかけるような国際的抑制の制度化を通じてしか,環境問題は解決されないと思います。」(8)

 地球環境問題には,「囚人のジレンマ」,「フリ−・ライダ−問題」(9),「コモンズ(共有地)の悲劇」(G・ハ−ディン)などと呼ばれる原理的ジレンマがつきまとうことはよく知られている(ただし,後でふれるが「コモンズの悲劇」は,本来「コモンズの欠如の悲劇」である)。抜け駆けした者,ただ乗りした者が得をするという公共財の性格に由来する社会的ジレンマである。こうしたジレンマを回避するためには,どうしても「人類総体を網にかけるような国際的抑制の制度化」が不可避となるというのである。

 しかし,全体規制の制度化は,個人の自由などの権利を犠牲にする「環境ファシズム」とも呼ぶべき全体主義に陥る危険性を有している。したがって,すべての個人の基本的人権を可能な限り擁護しながら,地球環境保護のための全体規制を達成するためにはどのような倫理原則を打ち立てなければならないか。これが,環境倫理を確立するための最も本質的かつ困難な課題となってくるのである。

 この困難な問題に関しては,槌田敦氏の考え方 (10)が解決への一つの方向をわかりやすく提示している。

 槌田氏も,個人の倫理だけでは環境問題は解決できないとする。したがって,「社会の倫理」をみんなでつくり,それによって,環境にダメ−ジを与えるものを社会の力で抑えていくしか方法はないことを強調する。ただ,「社会の倫理」は,全体主義的な倫理ではなく,あくまでも交渉によって行われる倫理でなければならない。交渉のル−ルに従って社会的な合意を形成し,環境に悪影響を与えるものにはすべて税金をかけるといった経済原則を利用したソフトな形で,環境問題を解決の方向にもっていくべきだとする。また,こうした「社会の倫理」ができてはじめて,それに則って個人も活動できるようになる,と主張する。

 高校レベルで環境倫理を取り上げる場合,こうした問題まで踏み込んだ内容でなければならないと考える。生徒の疑問に答えるためには,地球環境問題が近代文明のどのような原理的・構造的欠陥によって生じたものであるかを,論理的に考察させるとともに,その解決に向けて議論すべき論点を,分かりやすい形で具体的に提示する必要がある。

 そして,このような学習のプロセスを通してはじめて,社会的合意とその形成の努力を重んじ,合意に則って政治的・経済的実践を行いうるという,真の意味での「公民」としての資質・倫理的自覚も育成されていくのだと考える。

 こうした一歩踏み込んだ環境学習を実践するためには,「モード2教育」的視点に立った「総合的環境学習」のような教育形態がどうしても必要となる。次の章で,「環境倫理学」的視点からのさまざまな論点を紹介するが,環境倫理学習は,それ単独としてではなく,総合的環境学習の一環として実践されるべきであることを,改めて強調しておきたい。

4.環境倫理のさまざまな論点

(1)環境倫理学の三つの基本主張と主な論点

 環境倫理学(environmental ethics)は,生命倫理学(bioethics) とともに,1970年代以降,アメリカを中心とする英米圏で成立・発達してきた学問分野である。日本においては,加藤尚武氏の『環境倫理学のすすめ』(丸善ライブラリー)によって広く一般に知られるようになった。加藤氏は,環境倫理学について,環境問題を解決するための法律や制度などすべての取り決めの基礎的な前提,社会的規制の根拠を明らかにしようとするシステム論としての倫理学である,と説明している。そして,その基本的な主張を,次の三つの原則に簡潔にまとめた。

 _自然の生存権・・・人間だけでなく自然も生存の権利をもつ。

 _世代間倫理・・・現在世代は未来世代の生存可能性をせばめてはならない。

 _地球有限主義・・・地球の生態系は有限であって,生態系の保存が他の目的よりも優先する。

 これらの原則をめぐって,これまでに多様な議論が展開され,いくつもの論点が出されている。

 この三つの原則は,広く知られるようになった反面,お題目として一人歩きしてしまっているような場合も一部に見られる。あくまでも論点として提示・考察させることが重要である。

 また,この三つの原則以外でも,さまざまな論点が提起されている。したがって,生徒が環境問題について抱く倫理的・思想的な疑問のかなりの部分に対して,議論や思索を深める手掛かりとなるような論点や倫理モデルを提示することが可能であると考える。ここでは,そのいくつかを紹介したい。

_自然の生存権の問題

 まず,自然保護の根拠は何か,という問題が基本的論点となる。自然保護を人間の利益のためと考える「人間中心主義」と,自然物にもそれ自体の本質的価値を認める「人間非中心主義(生命中心主義)」との対立は,環境倫理学における最大の論点といえる。開発か自然保護かを争う現実の局面でも,根底にこの二つの対立があることが少なくない。

 生命中心主義の一種として,A・ネスが提唱した「ディープエコロジー」がある。人類の生存だけを考える従来の発想を「シャロウ(浅い)エコロジー」だと批判し,全生命体の平等と,自然と一体になっての自己実現を目指し,ライフスタイルの転換を唱える。

 生存の権利の対象となる自然物の範囲をどう規定するか,が二つめの基本的論点となる。生物の種か個体か,非生物も含めるのか,また,生物の個体の場合,知能などの能力による区別を持ち込むべきか,という論点である。

 P・シンガーは,人間という種を特権化する「種差別主義(speciesism)」からの解放を説く。快苦を感じる動物には苦痛をさける権利を,知能の高い動物には生存権を与えるべきだとして,「アニマルライト(動物の権利)運動」に理論的根拠を与えた。しかし,この理論を人間にも適用し,知的能力の低い人間は生存権を持たないと主張して,ドイツなどで激しい抗議運動を招いた。シンガーの主張は,生命倫理と環境倫理にまたがって大きな問題を提起している。

 C・スト−ンは,論文「樹木の当事者適格」において,自然物にも法的権利を与えるべきだという議論を展開し,大きな反響を呼び起こした。その祖型としてA・レオポルトの「土地倫理(land ethics) 」がある。

 これらの主張に対しては,人間の間で権利が拡張されてきたことと,人間以外まで権利を拡大することとは次元の異なる問題だという反論も多い。

_世代間倫理の問題

 環境問題が,現在世代が未来世代の生存を脅かすという通時的構造を持つのに対し,現在の民主主義が現在世代の同意に基づく共時的な決定システムであり,世代間にまたがる問題には有効に機能しないことを認識した上で,世代間の責任倫理をいかに確立するかが最大の論点となる。その際,未来世代の利益を理由に途上国に犠牲を押しつけない,という視点を確保させることが重要である。

_地球有限主義

配分の正義を,有限な地球生態系の中でいかに実現するかが論点となる。また,前述のように,地球環境保護のために個人の自由などの権利を踏みにじる「環境ファシズム」をいかに回避するか,も困難な課題となる。

(2)「欧米的〈環境倫理学〉」の枠組みを問い直す論点

 以上のような環境倫理学が提起する論点の他に,欧米で成立した環境倫理学の枠組みそのものを問い直す動きも目立ってきている。

 第三世界からは,欧米の環境倫理の議論は,西洋の技術文明がもたらした破壊に対する償いの意識の屈折した表現であり,第三世界の実際の生活に即した視点が欠落した「先進国文明の解毒剤」にすぎない,という厳しい批判がなされている。

 また,日本でも,環境倫理学における特殊アメリカ的な偏りを克服しようとする議論も見られるようになった。

 たとえば,アメリカで発展してきた環境倫理学において,保護されるべき自然とは,手つかずの「原生自然(wilderness)」である。したがって,「自然の権利」とは,人間から切り離された自然の価値を「権利」として保障することを意味する。

 これに対し,鬼頭秀一氏は,日本でも最近おこされるようになった「自然の権利」訴訟にみられる「自然」の概念には,歴史や文化などの人間との「かかわり」が内包されており,アメリカの自然概念とは同一でないと指摘する(12)。そして,「人間」対「自然」という二項対立図式を脱却し,人間と自然との深いかかわりあいのあり方を主軸とした新たな環境倫理を構築すべきだと主張している。

 この主張と深く関連するが,宗教学の中沢新一氏は,自然生態系の保護だけでなく,土地住民の精神的・社会的基盤の保全をも視野に入れた環境保護運動の先駆者として,南方熊楠を挙げている(13)。熊楠は,1907年に明治政府が出した「神社合祀令」(神社を統廃合し,1町村1社に限ろうとする法令)に反対し,孤軍奮闘した。博物学と民俗学の巨人であった熊楠は,無数の神社林を伐採から守ることが,地域と住民の社会的・精神的基盤を守ることでもあることを洞察していたという。中沢氏は,フェリックス・ガタリの「三つのエコロジー」理論(自然環境に限定されたエコロジー運動では現代の全面的危機に対処できないとして,社会のエコロジー,精神のエコロジーを併せたエコロジーの三位一体的理論展開を提唱したもの)を援用し,熊楠のエコロジー思想が,「たんに自然生態系に対する配慮(生態のエコロジー)にとどまるものではなく,人間の主体性の生存条件(精神のエコロジー)や,人間の社会生活の条件(社会のエコロジー)を,一体に巻き込みながら展開される,きわめて深遠な射程をもつもの」だったとして,その今日的重要性を指摘する。

 最近,注目されつつある「保全生物学」や「保全生態学」といった自然科学の領域においても,〈生物多様性〉の保全の議論の中で,生物と人間との関わりの歴史や,人間の文化などの視点が重視されるようになってきているようである(14)。

 環境経済学の多辺田政弘氏は,環境問題における「市場」(私)か「政府」(公)かという二項対立的議論の中で,「コモンズ」(共)の重要性が見失われてきたと指摘する(15)。日本でも,「入会地」は,前近代的なものとしてみられてきた。しかし,地域環境を熟知しているのはそこに住む住民であり,したがって,環境保全の担い手は,何よりも「共」的世界としてのコモンズでなければならないというのである。その意味で,G・ハーディンのいう「コモンズ(共有地)の悲劇」とは,正確には「コモンズの欠如の悲劇」なのであり,共同利用のルールの欠如によって起こる略奪的な「カウボーイの経済」の悲劇に他ならないと主張する。

 「人間」対「自然」,「開発」対「自然保護」,「人間中心主義」対「生命中心主義」,「公益」対「私益」などの二項対立的論点は,ディベートのテーマなど問題提起の方法としては有効だが,そうした二項対立図式の前提となる枠組みそのものを問う視点をも併せて提示することが,環境倫理教育においては重要であると思われる。 

5.環境倫理教育と生命倫理教育との連携

(1)環境倫理学と生命倫理学の関係

 前述のように,環境倫理学と生命倫理学(バイオエシックス) は,ともに1970年代前半にアメリカで成立し,アメリカを中心とする英語圏で発展してきた学問分野である。こうした背景もあって,これまでの環境倫理学と生命倫理学にはアメリカ的な価値観が強く反映されている。

 加藤尚武氏は,1991年の時点で,この二つの分野が原理的に180度対立していると指摘した。環境倫理学が「全体の生存可能性」を基礎原理としているのに対し,バイオエシックスは「個人の自己決定」を基礎原理とし,思想的に正反対の性格を帯びている点を捉えての指摘である。

 しかし,1990年代後半に入って,そうした対立図式に変容を迫るような動きが,アメリカ以外の世界で特に明確になってきている。環境倫理に関する動きはすでに簡単に紹介した。生命倫理についても,あまりにも個人主義的・功利主義的で,自己決定権中心主義的とでもいうべきアメリカ的ななバイオエシックスの特殊性が指摘されるようになってきた。

 最近になって,ヨーロッパを中心に,先端医療問題に関する国際条約を作る動きが目立ってきている。1996年11月には,ヨーロッパ評議会が「人権と生物医学条約」(通称「ヨーロッパ生命倫理条約」)を採択し,1997年末には,ユネスコ(国連教育科学文化機関)が「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」を採択している。そうした動向の基底には,生命倫理問題を人権問題として明確に位置づけようとする共通認識があるといわれる。これらの国際条約には,フランスの生命倫理に関する理念と政策が大きく影響しているといわれる。医療社会学の木勝島次郎氏によれば,フランスの生命倫理政策の中心理念は,人体は「人権の座」として尊重されるべきであり,人権は公の秩序に関わることであるから,人体とその部分の取り扱いに関しては,個人の自由は制約を受ける,という考え方だという(16)。これは,アメリカ的なバイオエシックスの対極に位置するような考え方である。フランスでは,こうした理念のもとに,1994年に先端医療技術全般を規制する「生命倫理法」が公布された。そこには,アメリカにおける精子バンクや代理出産業などのような,人体と生殖の商業化の進行に対する危機意識が強く反映されているといわれる。

 世界人口の約8割を占める第三世界の貧しい人々にとっては,高価な先端医療技術は高嶺の花であり続けるのではないか,そうした危惧が,第三世界の医療問題に携わる専門家から寄せられている。「先進国」の国民のみが先端医療技術の恩恵を享受するような事態に陥らないためには,南北問題を最大限に重視した国際的生命倫理の構築が不可欠となる。生命倫理と環境倫理は,本来,深く関連づけながら論じられるべきなのである。 

(2)環境倫理教育と生命倫理教育との連携の重要性

 生命倫理と環境倫理に共通する点を,いくつか挙げてみたい。

 _「いのち」と科学技術の関わりによって生じた問題を対象とする。

 _机上の空論が許されない問題への対処を課題とする応用倫理(実践倫理,臨床倫理)としての性格を持つ。

 _「個人の倫理」のみには還元できず,システム論的視点が要求される。

 _超学際的性格を持つ。

教育との関連においては,特に上記の_の視点が重要であると考える。そして,生徒を,個人レベルの出口のない倫理的ジレンマの中に置き去りにしないためにも,人間も含めた生命と科学技術との関わりを考察するにあたっては,多角的・総合的視点が不可欠となる。その意味でも,環境倫理教育と生命倫理教育との連携が重要となってくる。

 森岡正博氏は,『生命観を問いなおす』(ちくま新書)において,次のように指摘している。

 「私たちは,地球上の自然を痛めつけるのと同じようなやり方で,私たち自身の生命をも痛めつけているのではないか。この点に注目することで,私たちがいま直面している問題群の本質が,いっきに見えてくるのではないか。」

 たとえ,問題の本質が「いっきに」見えてくることはないとしても,環境倫理と生命倫理を教育で取り上げる際には,常にこうした視点に立ち戻る必要があると考える。

 

6.授業実践における留意点・反省点

 環境倫理をテーマとした実際の授業では,前述の論点のいくつかを紹介しながら,ディベ−ト,小論文などの実践を試みてきたが,その際の留意点・反省点を最後に述べておきたい。

 第一に,生徒が関心を抱きながら議論や思索を深められるように,できるだけ分かりやすく,興味を持てるような教材や授業内容を心がけた(17)。前述のビ−トたけしの文章の他に,マンガを用いたり,テレビの環境特集を録画編集して利用したり,といった具合である。たとえば捕鯨問題に関するディベ−トの捕鯨肯定側資料の一つとしてコミック『美味しんぼ13 激闘鯨合戦』(小学館ビッグコミックス)の一部を用いたが,これは,食文化の問題や,宮沢賢治が『よだかの星』で強く打ち出した「生存罪」の問題などのテーマを通して,生命倫理と関連づけて授業を行うのに格好の教材であると思われる。ただし,教材資料に関しては,著作権の問題に十分に配慮する必要がある。

 第二に,環境倫理の議論が,現実から遊離した観念論に陥らないように気をつけた。そのためには,環境,資源・エネルギ−,人口,南北問題の実態をきちんと授業しておくことが大事であろう(実際には,限られた時間の中で,思うようにはいかなかったが)。

 また,「動物の権利」論は,バイオエシックスの「パーソン(人格)論」と共通の論理構造を持つので,環境倫理と生命倫理を関連づけるテーマとして有効だが,動物の権利を取り上げるにあたっては,人権の重みをしっかりと踏まえた議論となるように,事前の十分な人権学習が不可欠となる。これらの学習の連携によって,人権概念についても,より深く広い視野の獲得が可能になると考える。

 第三に,地球規模の問題を強調するあまり,地域の等身大の環境問題への関心を低下させることにならないよう留意する必要がある。むしろ,この二つの問題が実は通底しており,地域経済の自立,地域自治の回復などによって地域を救うことが,地球環境を救う近道であるという視点をこそ提示すべきであったと反省している。この視点から,日本における「公害教育」の取り組みは再評価されるべきであろう。

 第四に,知的理解の土台となる感性を養う各種の体験教育の充実が,環境倫理教育の前提として大変重要となる。

 最後に,環境教育,生命倫理教育,人権教育,平和教育,開発教育など,さまざまな教育領域を連携させていく「メタ総合的学習」といった発想が必要であると思われる。その際,モード2教育の視点が欠かせないと考える。

〔注〕

(1)マイケル・ギボンズ『現代社会と知の創造』(丸善ライブラリー)。
(2)「高等学校における環境教育の在り方に関する調査研究」(埼玉県南教育センター研究報告書 第259号,1997)
(3)鬼頭秀一「環境教育におけるSTSの視点 −山口大学での実践から−」(『日本環境教育学会第2回大会・研究発表要旨集』,1991)
(4)柴谷篤弘「構造主義生物学とエコロジー」(『情況』1990年9月号),「自然保護について最近生じた思考の転回」(『技術と人間』1990年7月号)。
(5)鷲谷いづみ・矢原徹一『保全生態学入門』(文一総合出版)。
(6)竹内和彦『環境創造の思想』(東京大学出版会)。
(7)槌田敦『熱学外論』(朝倉書店),「物質循環による持続可能な社会」(室田武・多辺田政弘・槌田敦編著『循環の経済学』学陽書房)。
(8)立花隆「生命と環境の仕組み」(『創造の世界』第84号)。
(9)松原望「地球環境問題へのゲ−ム論的接近」(『講座・地球環境4 地球環境と政治』中央法規)などを参照。
(10)槌田敦『環境保護運動はどこが間違っているか?』(宝島社)。
(11)S・フレチェット編『環境の倫理(上)』(晃洋書房)を参照。
(12)鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)。
(13)中沢新一『森のバロック』(せりか書房)。
(14)樋口広芳編『保全生物学』(東京大学出版会),前掲『保全生態学入門』, 鬼頭秀一「日本の自然の権利訴訟と生物多様性の保全」(『科学』,Vol.68, 1998年)などを参照。
(15)多辺田政弘「自由則と禁止則の経済学」(前掲,『循環の経済学』)。
(16)木勝島次郎「先端医療政策論」(『岩波講座・現代社会学14 病と医療の社会学』)。
(17)環境倫理教育における教材資料については,ここでは十分紹介できなかったが,すでに一部の紹介・解説を試みた(中教出版『資料・21世紀をどう生きる?−現代の倫理的課題』の第6章「環境との共存」)ので,参照されたい。
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日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)