遺伝子治療

Gene Therapy

浅野 茂隆  Shigetaka Asano
東大医科研  President, Tokyo University Hospital
Email < asano007@ruby.famille.ne.jp >.

pp. 107-109 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
<要約>

種々疾患に関わる遺伝子情報が次々と明らかにされつつある。これらの情報は,疾患の早期診断や治療に役立つだけではなく,これまでの経験に基づく思考錯誤の治療から副作用が少なく効果も確かな新しい分子標的治療の開発に貢献するであろう。さらに,ヒトゲノム解析の進展は外的因子に対する反応性を規定する遺伝情報などをも明らかにし,個々の遺伝子プロフィールに合わせた予防を徐々に可能にしていくことになろう。これらは,将来にわたって求められている低コストで効率のよい医療の提供に必ずや繋がると考えられる。言うまでもないが,この過程を私達が推進していく際に最も大切にしなくてはならないことは,生命倫理である。この生命倫理についての考えは,時代時代で変化する部分もあった。しかし,恩恵の共有化,プライバシーの尊重,および人間社会の多様性の尊重という点において,決して変わることがあってはならない。ところで,こういった先端医科学への我が国の取り組みは欧米に比べると余りにも遅れている。その実態は,21世紀の革新的医療の一つと目されている遺伝子治療臨床研究の現状を日米欧で比較すると,一目瞭然である。科学の進歩に向けられる感情的反対論がその適正な発展を妨げることを極力回避するために早急に求められているものは,ガラス張りで効率のよい,国際規格に合った先端医療開発システムの構築であろう。

 

1.現状と将来

 これからの治療法は,既存の治療法に比べて,低コストで,かつ,質の高いものであることが求められる。この点を満足させるものは,特定の分子だけを狙うことで副作用を極力回避しょうという分子標的療法である。この中でも特に興味が持たれるようになっているものの一つが,遺伝子そのものを医薬品として用いる遺伝子治療法であろう。これは,遺伝子操作技術が急速に進歩し,多くの疾患でそれぞれの病態を説明する遺伝子レベルの異常が解析されるようになり,その知見が急速に蓄積されてきたことによる。今後も遺伝子操作技術は進歩していくであろうし,ヒト全ゲノム解析を背景にしたゲノム医療の展開によって,疾患や個人に関する遺伝子情報とそれらの治療へ展開の需要は増えつづけるであろう。下図のように,これらの進展を契機に遺伝子治療はそれぞれの患者の疾患の分子病態に合った,より理想的な方法を求めることになる。徐々に疾患や病態の対象枠を広げながら遺伝子治療法が今後確立していくことは間違いない。

現時点では,遺伝子治療の方法論は満足のいくものではない。その発展に向けて解決していかねばならない課題も多い。これら課題としては,治療遺伝子として何を用いればよいか,それをどの細胞に導入するか,その細胞に特異的に導入するためにはどのようなベクターをどのような方法で用いるのがよいのか,その発現の効率をあげるために

はどのようにするか,その発現を調節するにはどうするか,と云ったものが含まれる。いずれ課題についても基礎研究が進んではいるもののマイナーなものは除いて直ぐには臨床へ展開は望めないので,しばらくの間は遺伝子治療臨床研究の適応は限られた疾患における末期患者などに対して単に治療遺伝子を補完あるいは補充療法の形で試行される状況が続くであろう。しかし,だからといって遺伝子治療の臨床的有用性が当分は得られないわけではない。そのことを示唆するデータは,既に,リンパ球を標的としたADA遺伝子治療,一部ガンに対する免疫遺伝子治療やp53遺伝子治療,心血管再狭窄に対するVEGF遺伝子治療,などで実際に得られている。したがって,とりあえずは,これら限られた疾患に対する遺伝子治療の有用性をさらに明確にすることや,ex vivo法からin vivo法へと云うような操作の簡便化を目的に主にベクターに種々の工夫がなされることで,遺伝子治療は緩やかに進展することになると思われる。

 この過程で取り上げられるようになっていく問題は,治療に対する個体反応における個人差である。すなわち,ゲノム医学が進展する過程で遺伝子多型と反応性,病期と種々の遺伝子異常との関連が明らかになるにつれて,同じ疾患であっても有用性が病期や個々の患者によって異なることをどのように予知するかが遺伝子治療においても新たな課題となろう。これは,,個人遺伝子情報に基づいた患者個人個人に合った治療遺伝子の選択や治療の時期の決定など,を迫ることになろう。また,現在は補充療法だけであっても,細胞標的法の進歩に加えて相同組換え法や人工染色体法などの技術が開発されてくると遺伝子治療も現在とは一変する。すなわち,異常遺伝子を正常化させる修復療法も発展すると予想される。その安全性さえ確認されれば,生殖細胞の遺伝子操作を含め,予防を念頭に置いた遺伝子治療法も可能になるかもしれない。

 以上のように,遺伝子治療の全体的なあり方は生命科学の進歩を契機に変遷し,また,バイオエシックスの考え方によって影響を受ける。しかし,遺伝子治療の実際の適応は,時代時代における遺伝子治療以外の治療法の進歩の状況によって大いに左右されることになろう。したがって,遺伝子治療の将来を論じる際には,そのことも十分に念頭に考慮する必要がある。

単一遺伝病 

 欠損した蛋白の遺伝子を,採取導入が比較的容易なある種の細胞へ導入し,安定に分泌補充させることで有用性が見こまれる疾患だけが,当分は遺伝子治療臨床研究の対象になる。その結果,ある程度の臨床的有用性が実際に示されることになろう。リンパ球へのADA遺伝子のex vivo導入や筋芽細胞や肝細胞への第VIII因子遺伝子のIn vivo導入によるものが,その代表的なものである。しかし,このような補完あるいは補充遺伝子治療も,低コストを求めて寿命の長い自己の幹細胞を標的細胞とした半永久的な有用性を維持する方向に代わらざるを得ない。この場合,多くは小児が対象であるから導入遺伝子が不特定の染色体部位に導入されることからもたらされる危険や不安は回避されなくてはならないことになる。これは相同組換え法や人工染色体技法が可能になって初めて達成されることになる筈であり,その結果,遺伝子発現の生理的調節も可能になるので対象となる疾患や標的細胞の枠も拡大することになろう。ただ,この研究に一応の進展が見られたとしても,このアプローチが広く一つの治療法として確立していくことを必ずしも意味しない。その理由の一つには,対象となるほとんどの疾患において同種組織特異的幹細胞移植法も発展してくることも予想されるからである。造血幹細胞を例にとれば,同種臍帯血移植を必要とする患者なら誰でも受けられる臍帯血バンクも既に国際的に整備されてきたし,また,子宮内造血幹細胞移植も現実に可能になっており,その場合に最も危惧されている重症の移植片対宿主病に対してもバイオエシックスの観点から見てより問題の少ないリンパ球を標的とする一過性の遺伝子治療で対処することが可能であることが示唆されてきているからである。

ガン

 患者に与える肉体的苦痛が既存の治療法に比べると遺伝子治療法の方がはるかに軽度と期待されることや発症頻度も高いことから,しばらくは益々研究が集中するものと考えられる。とくに,いろいろなガン種でガン細胞特有の悪性度を規定する遺伝子異常が次々と明らかにされているのでアプローチも多様になることが予想される。ガン細胞標的法がさらに確実になれば,より特異性の高いアンチセンス法やリボザイム法の臨床研究も今以上に進むものと考えられる。そこで最も重要な課題となるのは,治療法の単純化,低コスト,それぞれのがん種や個々の患者に合った治療法の選択,である。たとえば,易操作性や低コストのためにはex vivo法より in vivo法が,また,腫瘍ワクチン法などの場合は自家腫瘍よりか他家腫瘍を用いる様になると思われる。また,ゲノム医学の進展で遺伝子診断により最も適切な治療遺伝子を決めてかかれるようになるかもしれない。しかし,同一患者であってもガン細胞に見られる遺伝子異常の発現レベルは多様であり,それらは経過によっても変化する。また,ガン細胞は局所療法だけでは克服できない。有用性は早期に遺伝子治療を行ったり,他の既存の治療法に併用したり,他の遺伝子治療などを組合わせることで追求されることになろう。その結果,がんに対してはこれまでのように完治を目指すと云うよりか,共存に目的に発展してことになるかもしれない。

感染症およびその他の疾患

 これまでは主にエイズを対象に遺伝子治療臨床研究が行われてきた。しかし,他の治療法,すなわち,抗ウイルス剤が進歩し致死率が低下してことが契機になり,遺伝子治療法への関心は,現時点では以前に比べると低くなっている。しかし,一般にウイルスを始めとした病原菌は変異し易いことを考えると,この傾向は長く続かず,感染症は遺伝子治療の格好の対象疾患であり続けるであろう。この点,開発が比較的容易なエピトープ蛋白をコードする遺伝子をプラスミドDNAとして直接に筋肉内や皮膚に注射するだけでよいDNAワクチン法は興味が持たれ,エイズに限らず幅広い感染症領域で今後発展していくものと思われる。がん以外の多遺伝子病である動脈硬化,慢性関節リュウマチ,糖尿病など,いわゆる,common complex diseasesは,我が国ではガイドラインで適応とされている致死的疾患には入れられていない。しかし,老齢化が進む中で益々発症頻度が高くなること,今の治療法だけではいずれは非可逆的に進行悪化する疾患であることから,医療費の抑制の面から考えても,遺伝子治療を含む新しい治療法を開発していくことの必然性はある。したがって,体制が整えば我が国でも,欧米と同様に,重要な遺伝子治療臨床研究の対象疾患と見なされることになろう。この場合,治療遺伝子として用いられるものの多くは病態発生を規定する遺伝子である。治療としては,併用療法を前提とし病態の進行を抑制することを目指すことになろう。

2.遺伝子治療臨床研究はTranslational Research,ガラス張りのシステムで行なわれるべきもの

 遺伝子治療のような革新的治療法を開発するには,まず,実験動物を用いた前臨床試験で既存の治療法に優ると考えられる安全性と有効性を示す必要がある。その上で,実際の疾患において今後の展開をストップさせるほどの予想しなかった問題が発生しないか否か,理論どおりの個体応答が得られるか否か,できるだけ少数の患者において,とくに詳細に観察することになる。このように医療開発において最初に少数の患者の協力を得て設定される実験的とも云える臨床研究は,実験動物がヒトとは異なることから当然必要なことであり,特にTranslational Researchと呼ばれている(下図)。

 真の臨床的有用性ついては,そこで分析された結果に基づいて実施される次の段階の臨床研究で検討されることになるから,このTranslational Researchはそれに参加する患者自身から云えば治療面で恩恵を受けるものではないし,同じ疾患に悩む患者には期待抱かせると同時に不安を与え得るものでもある。それだけに,TranslationalResearchにおいては,その内容に関しての信頼性と透明性の確保や患者が抱くであろう不安を極力取り除くための努力や補償の確保が重要となる。たとえ費用が高くついてもサルなどヒトに類似した霊長類疾患モデル動物を使用した検討も場合によってはあらかじめ行わること,患者プライバシー保護の許容範囲内ですべてのデータが公開されること,都市型で基礎研究者や臨床研究者が共同利用の形で参加連携できるシステムの整った公的な医学研究機関で行わること,第三者による信頼される審査評価委員会を設置すること,どこからでも参加を希望する患者がアクセスできること,関心のある人なら誰でも正確な情報を得られること,などの必要性が叫ばれるのはそのためである。Translational Researchに要求される上記のことからして,Translational Researchを遂行するには必要な施設が纏まって存在し,必要な委員会もその場所で常時開かれるようにすることが望ましい。このようなシステムは必要なものさえ備わり体制やその支援組織さえあれば,却って小さい方が効率的には機動的でもあるし,経済的にもよい。たとえば,ガイドラインにしても必要に応じて改定することも,また,審査が遅れないように必要に応じて開くことも可能になる。その上,このような纏まったシステムがあれば必要とされる研究者に対する医療開発のための教育も効率良く行えるようになる。ところが,我が国には個々の施設はばらばらに整備はされてはきたが,それに見合ったものはシステムとして未だ整備されていない。そのため,先端医療としての遺伝子治療を開発することを目的とした臨床研究は欧米の先進諸国に比べて大きく遅れをとってしまった。これが,また,医療ベンチャーは立ちあがらず,また,医療産業界も活力を失いつつある原因にもなっている。今後この分野において欧米と対等な関係をもち,また,アジアにおいて協調関係を創造していくための中心的役割を果さねばならない我が国は,国を挙げて下図のようなガラス張りのシステムを緊急に構築する必要がある。


Please send comments to Email < Macer@biol.tsukuba.ac.jp >.

日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)