生命倫理を核とした公民科『倫理』の展開

Development of Civics (Ethics) by Putting Bioethics as a Nucleus

大谷いづみ      Izumi Otani
東京都立国分寺高等学校 Kokubunji High School , Tokyo

Email: KHA00347@nifty.ne.jp

pp. 16-25 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。


1. 学習指導要領と「生と死をめぐる諸課題」
2 .生命倫理学の学際性を活かす
3.「答えのない問い」を問うためのしかけ
(1) 価値判断から始める
(2) 整理しすぎない
(3) 多様な視点を提示する
(4) 「知への愛」に至る
4. 上滑りする「自己決定権」
5. 家庭への教育力
6. 結果の検討と検証
7.研究者と一般市民の乖離をつむぐもの〜生命倫理教育の役割

付録資料 別表 年間授業構成 授業プリント ベビーM事件,「呼吸器の生」
はじめに

 筆者が高等学校社会科『現代社会』の倫理分野において生と死をめぐる課題を核にした授業展開を始めてからこの秋で13年を数える。当時は「バイオエシックス」とカタカナ語で語られた*1)この新しい領域の持つ「面白さ」にまず筆者自身がとりこになり,間もなく諸課題の抱えるディレンマと向き合い考えることに生徒が夢中になり,そしてそんな生徒たちの反応のゆえに,「教育(educare)すること」が面白くなってしまったことは,うれしい誤算であった。

その後,十年来生命倫理教育に携わって来た仲間とともに企画・制作した高等学校及び医薬看護系進学者向けの副教材『テーマ30 生命倫理』(教育出版)は,看護学校,短大・大学一般教養向け入門書としても過分な評価をいただいている。また,筑波大学のDarryl Macer先生の呼びかけで1996年冬に始まった,「学校における生命倫理教育ネットワーク」

(http:eubios.info/indexJ.html)も3年目を迎え,こうして紀要の第1号が発行される。会員の手になる「生命の教育」をテーマにした総合的学習の事例集もまもなく清水書院より出版される。 ルポルタージュの他は邦語文献も数えるほどで,手探りの状況の中で自主教材を作成した13年前とは隔世の感があるが,他方で,公民科『倫理』においては,未だに倫理思想史の暗記学習の域を出ない学習が多く行われている。

 本稿では,「生と死をめぐる課題」を核とした公民科『倫理』の展開を,現行学習指導要領における実践に基づいて紹介するとともに,新学習指導要領への展望も視野にいれながら,公民科『倫理』の暗記型思想史学習からの脱却の一例としたい。

1. 学習指導要領と「生と死をめぐる諸課題」

 学習指導要領ではすでに思想「史」の枠組みを外れた現行の高等学校公民科『倫理』の教科書においても,その趣旨に反して先哲の思想を網羅的に紹介したものが圧倒的に多い。『世界史』や『日本史』を専門とする教員がピンチヒッター的に『倫理』を担当する場合(実際『倫理』を専門とする教員は少ない)には,思想史学習を注入的に行うのが教師にとってもっともやりやすいのであろう。しかしながら,それが『倫理』教育としての役割を果たしているかというと,答えは否である*2)。そこで,「先哲の思想を手がかり」*3)としながら,現代の重要な倫理的課題である生命倫理の諸課題をどのように扱いうるかを示したい。

 ところで,わが国において,中等教育における生命倫理教育はいまだ実験と模索の域を超えない。しかしながら,現行の学習指導要領に続き,昨春発表された新しい学習指導要領にも高等学校公民科『現代社会』において「現代に生きる私たちの課題」として「科学技術の発達と生命の問題」が,『倫理』において「現代の諸課題と倫理」として「生命における倫理的課題」が課題追求学習として明記されている*4)。したがって,2003年から使用される『現代社会』『倫理』のすべての教科書に,生命倫理の項目が設けられるはずである。また,小中高を通じて特設される「総合的な学習」の時間においては,国際理解,情報,環境と並んで健康・福祉の項目が挙げられており,そのいずれもが生と死をめぐる生命倫理の諸課題と深く関わる*5)ものである。また,小中高校の総則には,道徳教育のなかで「人間尊重と生命への畏敬の念」を生かすことがうたわれており,小中学校での生命倫理教育の可能性を示している。

他方,生と死をめぐる諸課題を扱う教育の名称として,「生命倫理教育(bioethics education)」「死への準備教育(death education)」「生命(いのち)の教育」など,さまざまな語が使用されている。親学問としてのbioethics, thanatology, death study自体の訳語についても議論が重ねられており,この分野自体の学際性とともに,その<新しさ>が伺える。生と死をめぐる諸課題を扱う際に,どのような教育形態が可能かつ有効であるかは,きちんとした整理と議論*6)が必要であり,また機会を得て稿を起こしたいと思うが,ここでは,高等学校公民科『倫理』での展開を議論する上でも,「生命倫理教育」の語を使用したい。

2. 生命倫理学の学際性を活かす

 欧米で発達した生命倫理学は,もともと,いのちに関わる諸課題について,医療の立場だけでなく,法律・経済学・社会学・倫理学・哲学・宗教学・人類学など,広範な領域からの研究を目的としており,その学際性は,前述の,倫理学習と政治・経済学習の統一化を可能にする。何より,アメリカでは,1960代に活発に展開された公民権運動の影響で,70年代に入って,医療に対する患者の権利が主張されはじめた。医療の専門家である医師から一方的に管理・保護されるパターナリズム(医師–患者の関係を父–子になぞらえて称する)を超え,患者自身が,自らのいのちの主権者であるという立場で発言しはじめたのである。やがて,医師の側からも,患者に対して医療上の十分な説明と患者自身の自発的な同意を保証するインフォームド・コンセントが受け入れられていくようになったのである*7)。実際,提供された臓器の移植優先順位を人種・社会的地位・年齢・性の異なる患者のうち誰に与えるかといった問題は,事実,経済教育において行われるディベイトなのであり,経済学と倫理的価値の教育とのかかわりを深く想起させるものであろう。

 しかし,生命倫理への視点が社会性に傾き過ぎると,それは単に制度や法律の問題に留まってしまう。だが,「人間とは何なのか」という哲学古来のなじみ深い問いは,この領域では重い現実を伴って再提起されている。医療技術の進歩が,人間の生命の始まりと終わりにあたって,その定義の検討を迫ったからである。

 現行の高等学校公民科『倫理』『現代社会』には,「人間の尊厳」「生命への畏敬」「生命の尊重」といった項目があり,これは新学習指導要領にも受け継がれた。「人間の尊厳」や「生命への畏敬」を語るとき,生命とは,人間の生物学的な生命を指しているのではなく,人格的な生命を指していると見るのが「常識」*8)であろう。そして,倫理思想史,西洋哲学史の文脈から判断すれば,このような捉え方の背後にカントの人格主義の影響を見ることは容易である。しかし,カントが目的それ自体として尊重されねばならない存在としての「人間の尊厳」を想定したとき,胎児や脳死者や植物状態の患者が,自己意識を持たないがゆえに,人間ではなく,ゆえに,生命維持をはかる対象から除かれるのみならず,実験や医療資源の材料となりうることを,彼自身は予想さえしなかったであろう。だが,「植物状態の患者の人工呼吸器をはずすか否か」「アルツハイマー病の治療に中絶胎児の脳組織を移植してよいか」という問いに直面するとき,そこにはまぎれもなく「人間の生き方」の問題が具体化すること同時に,「人が生きるとはどういうことか」「人間の尊厳とは何か」という問いが,基本的人権という次元をはるかに超えて内省化されるのである。

 パーソン論として生命倫理学では名高いこの問題は,すべての人間が直面するわけではないにせよ,だれもが人生のある時期には直面する可能性をもっている。であればこそ,自分自身の主体的な選択基準ないし判断基準をもつことが要求されるだけでなく,公共政策の意思決定や社会の許容性に個々人が自ら関わっていく上で,人間の存在や価値についての客観的な理解をも必要とするのである。「SOL〜sanctity of life 生命の尊厳」と「QOL〜quality of life 生命の質」の間で揺れるいのちへの問い*9)が,カントの人格主義に今日的,実際的な意味を与えたが,同時に,その同じ問いが,カント的な内発的理性の考察を促すのである。同様な取り組みが,他の思想家の学習にも可能であろう。そのひとつの試みが,別表に挙げた教材構成である。

 思想家の配置については異論もあろうし,検討の余地もある。が,世界への問い,人間への問いに取り組んだ思想家たちが今現代に生きていたならば,いのちをめぐる諸問題に取り組まなかったはずはない。医療資源の配分の倫理は,現に功利主義を背景に語られている。マルクスは,人間の物質的生産活動に注目して,独自の歴史論である唯物史観を展開し,科学的社会主義を提唱した。臓器移植の増加とそれにともなう提供臓器の不足が,経済格差のなかで臓器売買という形態を生み出すことを,出産行為が安価な労働となることを,マルクスは究極の人間疎外ととるだろうか。それとも,人間の肉体や生命が売買の対象となり,中絶胎児や脳死身体が医療資源として活用されることを許容するような道徳や宗教が生まれることを,歴史の必然と取るだろうか。このような仮定は皮肉に過ぎるとしても,思想家の基本的な考え方を生命倫理の文脈の中で考察することによって,逆に古今東西の思想を学習することに今日的な意味を見いだすことが可能であると同時に,生命倫理を学習することの形而上学的な意味を問うことができるのである。

3. 「答えのない問い」を問うためのしかけ

 「答えのない問い」を問う  これは筆者が1987年にはじめて行った生命倫理の実験授業の実践記録を報告*10)したときの題名である。およそ人が生きていく上で,ただひとつの正解を決められようはずもなく,まして生と死の諸課題に関してその傾向は著しい。マルバツ式教育にあまりにも適応し過ぎてしまった生徒たちに,生きることに唯一の正解はなく,人間は敵と味方,善人と悪人に二分できるのではなく,たいていのことはもっと曖昧で不可思議で,それゆえに,人間は豊かで深い味わいを生きることが出来るのだという実感と,だからといって「何でもあり」なのではなく,自分と他者が共に尊重しあえるのにはどうしたらいいのか,それを求め続ける能力(答えは容易ではないのだから)を身につけてもらうこと,それがささやかな目標である。幾度かの試行錯誤を経てしかけた方法は以下の通りである。

 (1) 価値判断から始める

実際に授業を進めていく上で不可欠な作業は,導入時の工夫である。テーマを象徴するような事例の新聞記事をコメントなしで読ませ,各々の当事者への価値判断をしてもらう。まったく無知な状態でどのような判断を下すのか,その問題点をあぶりだしながら授業は展開していく。考えてみれば,生徒に限らずわれわれおとなも,さまざまな情報を無知とは気づかずに価値判断し,それが集積されてひとつの<世論>とでもいったものを形成しているわけで,彼らの判断,すなわち高校生社会の<世論>を,裁判の判決と照らして検討するのである。

 (2) 整理しすぎない

検討の際に心がけたいことは,整理しすぎない点にある。およそ教師は,知識を整理して生徒に示しがちだが,整理されすぎた情報を与えられれば,生徒に残されるのはただ「覚えること」のみだ。「考えるためのテーマ学習」を行いながら新たに覚えるべきトピックを増やしたにすぎないならば,こんなに皮肉なことはない。

 (3) 多様な視点を提示する

 無知な状態での生徒の価値判断は,実はかなりステレオタイプなものだ。しかし考えてみればこれも当然のこと。高校生はある意味では教えられっぱなしの存在であり,それを検証するリアルな体験も豊かとはいえない。ここ数年最近流行っている20世紀の「人物伝」「出来事」風のバラィティ番組も,概略のイメージした映像が情緒たっぷりに流れた後,性別・年代・考え方にバランスをとったコメンテイターが,しかも大概は「安心できる常識的な」様々なリアクションを見せて,「どのような感想をもてばよいか」を教えてくれる。一見考えさせるような番組でありながら,実は思考を許さないつくりになっているのだ。

 そんな生徒の反応に対して,医学的な,法的な,経済的な,文化的な背景を提示していく。当事者になった場合,反対の立場の当事者にたたされた場合など,ディレンマと向き合わせながら,なるべくリアルにイメージさせる。

 (4) 「知への愛」に至る

 以下に引用するのは,1987年に初めての実験的な授業を行った学年末に,ある生徒が提出ノートに書いてきたものである。

倫理の授業では次から次へとプリントが配られ,違った視点から問題を考えることを強制された。最初のうちは,自分の浅い知識と勝手な想像によって完成された偏見をかたくなに守り続け,それを通し抜こうとしていたのであったが,だんだんと自分の考えでは解決できないことが山ほどあったことに気づきはじめる。あわてて考えを何回も変えているうちに自分の考えは何なのかわからなくなり,「簡単に結論を出すことができない難しい問題」というすばらしい結論に到達するのであった。最後で先生が「白か黒かはっきりさせることのできるものは少ないが,それでも結論を出さなければならないものがたくさんある」ということをおっしゃったが,つまり先生のいわんとするところは「もっと頭を使って考えなさい」ということなのだと思う。(中略)そこでこれからは,新聞を読むときもテレビを見るときも,その内容を鵜呑みにせず,できる限り違った視点から考えるようにしたい。その目を養うためにも私はもっと勉強すべきなのだと思った。

 注目したいのは最後の部分である。生命倫理の授業を通じてこの生徒が得たものは,「生命倫理の正解」ではなく,情報をうのみにして安易に結論づけることの危険性と「学ぶことの必要性」,いうなれば,「知への愛」なのであった。ソクラテスを学ばずともソクラテスの神髄を会得したのだ。彼のこの実感こそを「無知の知」というのだと彼が知ったとき,それは「暗記してすぐに忘れて終わる記号」では断じてない。

4. 上滑りする「自己決定権」

 しかしながら,生命倫理を核にした倫理教育にも,大きな落とし穴が存在する。生命倫理においてその中核をなすのは,自己の自由と責任において行使する自己決定権という概念だが,わが国においては,「個人」とか「自己決定」の論理が本来的な意味において浸透しているとは言いがたい。大人社会においては勿論のこと,イジメを恐れて「みんな一緒」の強迫観念に神経をすり減らし続けて来た高校生に,果たしてどこまで「自己決定権」の重みを自覚させうるかは,冷静な検討と検証が必要である*11)。

 別表の年間構成概略に挙げた筆者の教材構成のなかで,ひとつのクライマックスを成すのは,_−_【エスカレートする<死ぬ権利>】の項目において,<死ぬ権利>は,果たして本人の選択なのか,それとも選ばされた選択なのかを問う部分である。「尊厳死」の議論や,さらに「前衛的」な医師介助自殺の議論は,中等教育においては,子どもの自殺や殺人,あるいは仮想世界での生命観といった時代状況についての考察抜きにはありえない。

 現在の大方の大人たちにとって,生命倫理が提示するディレンマは,すでに得ていた生命観への,ある種のチャレンジであった。しかし,現在の高校生は,リセット可能なヴァーチャル・ペットとともに育っているのである。また,優生学への懸念,それも,ドイツ・ナチズムだけを悪玉として引き合いに出すのではなく,昨今明らかになった,福祉国家スウェーデンでの1970年代の強制不妊手術や,ようやく改正された日本の旧優生保護法などのような,より身近な優生政策をともに例示すること,あるいは,「生まれてきたらかわいそう」という,一見善意にあふれた言葉(実例でリアクションをとると生徒はこの言葉を濫発する)の背後に潜む抜きがたい優越感と,「所詮他人事」意識への自省は不可欠である。それなしに,生命倫理の諸課題を生徒に提示することは,究極,生命の質に基づいて生きる価値のある者とない者を区別し,そのことの是非を省みぬまま,生きる価値がないと見なした者を社会的に退場させることを正当化する価値観を育むような影響しかもたらしかねない。

5. 家庭への教育力

 生殖技術の是非や,脳死や尊厳死など死の問題を扱っていると,例えば,かなりの生徒が,その話題を家庭に持ち込み,親子でこれらの課題を論じるようだ。そして,老親の介護に現にたずさわって,人生をふり返る時期にあたっている生徒の親自身が,この問題に強い関心を示す。彼ら自身の死の準備について,夫婦で真剣に話し合いました,などという報告を,担任経由で耳にすることもある。今春の脳死移植再開に際しては,前年の秋に授業を終えたばかりの幾人ものが,家庭で両親にその知識を披露し説明したことを誇らしげに語っている。生徒を通じて親・家庭への教育力を持つテーマは,昨今,それほど多いわけではない。

 

6. 結果の検討と検証

 であればこそ,授業実践にあたって,授業内容の検討はもちろんであるが,忘れてはならないのが,実践した結果の,生徒の反応の検証*12)である。生命倫理に関して,言いっぱなしは許されない。授業が,教師の知的遊戯に終わってはならない。もしそうならば,自らの知的好奇心からさまざまな科学技術を生み出しながら,その技術を生み出した科学者,技術者としての倫理的責任から背を向ける者と同じ罪を,教師自身が犯してしまうことになる。倫理教育にたずさわる教師にとって,これほどの皮肉はない。

 生命倫理は,高度な倫理的検証を呼び起こす課題をいくつも抱えている。しかし,それを,ロジカルな遊戯に終わらせることは,厳に戒めねばならないだろう。

7.研究者と一般市民の乖離をつむぐもの

〜生命倫理教育の役割

 生命倫理学の現在の隆盛を眺めながら,今なお思いを強くしていることは,この領域に携わる諸領域の研究者の議論と,一般市民の知識・意識とのギャップである。一例をあげよう。1999年9月,その年の春に脳死移植が再開されて後,初めての「脳死・安楽死・尊厳死」のテーマ学習の冒頭で,脳死についての知識を問うた。「脳死」という言葉の認知度はここ数年で飛躍的に上がっている。しかし,脳死=植物状態と断言する生徒の割合は堅持して約2割である。にもかかわらず,臓器提供してもよい,と答える生徒の割合は上昇しつつある。「脳死移植」という言葉が,正確な理解と実感をもたないまま一人歩きしている。

 高校生の状況は一般市民の最前衛とみてもよいだろうが,このぬきがたい乖離を埋めるのは,教育とジャーナリズムであると筆者は考えている。前述したような,家庭への教育力も考慮すると,生命倫理の課題に関する教育の持つ力は大きいはずだ。

 特に知識も興味もない一般人の興味を惹起するような<芸>が要求される立場にある教育とジャーナリズムに,共通して自制したいのは,いたずらな建前の美談に流されることなく,いたずらな告発に終わることのない問題提起であろう。環境問題や医療・科学技術の発達とその課題を取り上げるとき,しばしば陥るのは,告発型の授業展開で生徒を脅して潜在的な絶望感にひたらせ,結果としてハルマゲドン信奉者予備軍を作り出してしまうことである。

先行き不透明な時代の閉塞感にさらされている現在であるからこそ,一足す一をマイナスにもプラスにもしうる人間の,複雑さと奥行きの深さに信頼したい。マルバツ教育に馴らされ,正解をすばやく要領よく暗記することに汲々としてきた生徒たちが,生命倫理の課題に出会ってとりくんでゆく,そのしなやかな変化を見るとき,人間の闇を見つめながらなお,その可能性を信頼することは可能であると思えるのである。

1) bioethicsの訳語をめぐってはさまざまな議論がある。教科書の中では「生命倫理(学)(バイオエシックス)」といったように,議論が反映した(?)表現で記述されることも多い。異論があることは承知しているが,学問の領域としてではなく,「環境倫理」「情報倫理」などのように,倫理の領域として訳語を考える場合には,「生命倫理」が適当であろうし,一般的には生命倫理なる語が定着しつつあるのではないかと思う。初等中等教育では,できる限りカタカナ語は避ける,というのが原則であるため,ここでは基本的に「生命倫理」の語を使用した。

2) 先哲の思想を体系的・網羅的に扱うか,触発型のテーマ学習を行うかについては,倫理教育の永遠の課題ともいえるが,前者については『倫理』を専門とする教員の,研鑽と意欲にとむ実績がある。しかし,そのような授業が展開可能なのは一定程度の「学力」を有した生徒を相手にしている場合であり,かつ,その結果得られた思想史的知識がセンターテスト用として要請される場合である。しかしながら,皮肉な結果として,生徒はセンター用として必要最低限の「受験用知識」として内容・項目を暗記するにとどまり,深い思索にいたることが稀なるのが実態である。また,センターテストとは無縁の高校にあって思想史学習を行っている場合でも,その定期考査が穴埋め式の形態をとっている限り,生徒の「意味を考えずに項目を暗記し,試験が終わったとたん忘却のかなた」という状況は変わらない。

3) 新学習指導要領には,「代表的な先哲の言説等を精選し,細かな事柄や高度な事項・事柄には深入りしないこと。また,生徒自らが人生観,世界観を確立するための手掛かりを得させるよう様々な工夫を行うこと」「先哲の思想を手掛かりにして,自己の課題として学習させること」と明言されている。(『高等学校学習指導要領』文部省,1999(平成11)年,p51)

4) 『高等学校学習指導要領』文部省,1999(平成11)年,p49,51,52

5) 生と死をめぐる課題は,健康・福祉はもちろんのこと,生と死をめぐる文化的,法的,制度的,経済的相違から国際理解教育と,生命を巡る情報の倫理的課題から情報教育と,生命=生物→生態系といった観点から環境教育と深く関わっている。

6)小学校において優れた授業実践を展開している金森俊朗は,「死から学ぶいのちの教育(仮)ネットワーク」の設立準備学習会での講演(1999年9月23日)で,「<いのちの教育>には,_領域としての問題と_視点として問題がある」という示唆に富む指摘をされた。筆者としてはさらに_方法としての問題が必要ではないかと考えている。

なお,金森の実践についてはその著書,『性の授業,死の授業〜輝く命との出会いが子どもを変えた』(教育資料出版会)に詳しい。

7) 塚崎智「先端医療技術がもたらした倫理的課題」(塚崎智・加茂直樹編『生命倫理の現在』所収)世界思想社,1989年,P.3〜8

8) ただし,学習指導要領が「生命への畏敬」というとき,人間の生命中心に語られているのではないことは,その解説を読めば明らかである。『高等学校学習指導要領解説 公民編』文部省,1988(平成元)年,p.62にはこう書かれている。「自然の生態系の中で,他の生命体との相互依存関係において人間の生命が維持されていることを認識させ,人間中心の生命観を問い直させ,他のあらゆる生命体との調和的な共存関係の重要さに気付かせる」。この点は,人間中心の西洋的な発想に対する反省を促すだけでなく,生命倫理の問題から環境倫理へと展開する布石に成りうる。

9) SOLとQOLの揺れが大きく「質」へとぶれる時,「生きるに値しない生命」が制度的に抹殺される危惧が現実のものとなる。

  筆者は,社会科『現代社会』及び公民科『倫理』のテーマ学習において,「ドイツ・ナチズム分析」を扱って来たが,これは,「生きるに価する生命」と「生きるに価しない生命」を選別し,「人間の尊厳」への根源的な挑戦を実行した社会と,そのような社会に関わった人間の,自由と責任をテーマにしたものである。生命倫理の教材化に取り組んで来た筆者にとって,このテーマへの接近はごく自然なことであった。ドイツ・ナチズムの悲劇が,政治や制度など社会科学的なアプローチだけでなく,また,「ドイツ」「ナチズム下」の特殊な状況におけるものとしてでなく,欧米の学者,知識人を中心に,深く倫理・哲学・心理学や文学から普遍的な課題として取り組まれて来たのも,同様の関心からであろうことは言うまでもない。

10) 初期の実践報告を記録したものとしては,「『答えのない問い』を問う〜生命倫理とアイデンティティの発見」(「月刊ホームルーム」学事出版,1990年4〜9月号掲載)を参照のこと。

11) 生命倫理を扱うと,その基本的原理である「本人の意思」という言葉を,生徒自身多用し始めるが,では,決定できるだけの自己を確立しているのか,死を選ぶ権利を云々出来るほど,充実した生を生きているのか,という問い返しは,テーマ学習_の【出生前診断】を経て,テーマ学習_【アイデンティティの確立】の伏線となっている。青年期の学習は,一般的に倫理学習の導入として扱われることが多いが,単に青年心理の発達的特質を学習したに留まらせず,倫理的自覚との有機的関連をはかるためにも,むしろ倫理学習の総まとめとしての位置づけが有効ではないかと考えている。

12) 触発型テーマ学習に対する生徒の学習成果の評価については,拙稿『「答えのない問い」の答えをいかにして評価するか〜生命倫理を軸としたテーマ学習と評価法〜』(平成3年度 全国高等学校「倫理」「現代社会」研究会全国研究大会発表,全倫研紀要第28集)を参照。

資料 生命倫理を軸にした公民科「倫理」教材構成 1999.9      東京都立国分寺高校 大谷いづみ

テーマ学習教材[考えたいあなたのための倫理入門] 知識教材[わかりたいあなたのための教養講座]
■オリエンテーション
時間(いま)–空間(ここ)ミわたし;わたし ミ からだ/こころ ミ いのち;わたし(自己)ミ あなた(他者)ミ 社会
■プロローグ 【学ぶことの意味】 
ヒトに生まれる≠人間に生まれる [ホモ・サピエンス,ホモ・ファーベル,ホモ・ルーデンス]
■テーマ学習_ 【人工生殖技術と家族〜ベビーM事件をめぐって〜】
1 アンケート:ベビーM事件
2 バイオテクノロジーとバイオメディシン 科学技術と人間

 合理的精神[ベーコン,デカルト]

プラグマティズム

 道具的理性[フランクフルト学派]

ニュルンベルク綱領
3 人工生殖の方法と課題:

  人工授精/体外受精; 先天異常児の出生?; 生殖細胞・受精卵[管理・実験・同意]; 複雑化する親子関係

VTR:『ソニアの赤ちゃん』
4 ベビーM裁判:

  <親子>の法的な決定 

  裁判の争点(代理母契約の有効性/養育権は誰に)  

  依頼者と代理母の背景     

契約は平等か  
家族とは何か

 「代理母」の思想的背景[ユダヤ・キリスト教]

家族の変遷と機能

  家制度から近代家族へ

  変容する現代の家族

親子とは何か             

親にとって子とは何か

子にとって親とは何か

親から独立し生き始める子ども

→自我の確立
5 分裂する父性/分裂する母性:

  遺伝の父・社会的な父/遺伝の母・出産の母・社会的な母

  変化する意思・依頼者の責任は? 

人のこころは割り切れるか?

  出産は労働となりうるか?

VTR:『代理出産』
6 人工生殖が問いかけるもの:

  人工生殖=福音か?/不妊は不幸か?/不妊は不自然か?
思いこみ[ベーコン]からの解放
7 もうひとつの選択

  子どもなしで生きる

  養子をとる(自分のためでなく子ども自身のために)

 

テーマ学習教材[考えたいあなたのための倫理入門] 知識教材[わかりたいあなたのための教養講座]
■テーマ学習_ 【無知は身を滅ぼす?〜脳死・安楽死・尊厳死〜】
1 アンケート:呼吸器の生/臓器移植
2 死の定義:

  従来の死の定義(法的/医学的)

  脳死の定義(脳の機能/脳死状態とは/植物状態との相違 

        脳死の<経済学>)

                              
 

医療経済学の背景

 調整的正義と配分的正義[アリストテレス]

 功利主義[ベンサム,ミル]
3 脳死・臓器移植の背景〜日欧の死生観・身体観〜:

  西洋の死生観・身体観            

   脳機能の停止は死                   

   死体はモノにすぎない

   臓器移植は部品交換

   臓器提供→無償の提供→愛の贈り物

 日本人の死生観・身体観

  死体はモノではない

   わかりにくい死(脳死)の拒否

    先祖への思い

    死はタブー→死についての論議を避ける

  脳死・臓器移植をめぐる日本の現状

 VTR:脳死・家族の選択
西洋

 心身二元論[プラトン,デカルト]

 唯物論[エピクロス]

 肉体機械論[ホッブズ,デカルト]

 キリスト教[アガペー]

日本人の宗教観・死生観

モガリにみる宗教観・死生観

八百万の神,死者も神

死はケガレ

情報の倫理

混乱する情報〜情報過多の情報過疎〜

情報公開制度と知る権利
4 カレン裁判〜尊厳死をめぐって〜:

  死ぬ権利を巡る自己決定権・信教の自由・代理行使権
 

 

 

SOL(sanctity of life生命の不可侵性)

対    

QOL(quality of life生命の質)

 

 

高齢化社会と福祉

人格と目的の王国[カント]

死の意味を見い出す[ハイデガー]

仏教[生・老・病・死]

宗教と人生
5 安楽死と尊厳死:

  ヒポクラテスの誓

  安楽死(積極的安楽死/消極的安楽死)

  尊厳死(生命の量から生命の質へ/リビングウィル)

  千葉敦子の死が語るもの〜パターナリズムとの闘い〜

   (死を知る権利/インフォームドコンセント)
6 エスカレートする<死ぬ権利>:

  積極的安楽死・消極的安楽死の区別はつくか?

  歯止めはきくか? 脳死→植物状態→重度障害者,高齢者

  自殺肯定・代理行使権の濫用(死ぬ権利から死なせる権利へ)

   本人の意思か,選ばされた選択か           

  死の尊厳と生の尊厳

 VTR:あなたの声が聞きたい
7 何のための医療か?:

  ホスピス・ケア〜よく生きるためのシステム〜

  患者の権利法
死の受容の過程[キュブラー=ロス]

社会参加と奉仕[マザー=テレサ]

 

テーマ学習教材[考えたいあなたのための倫理入門] 知識教材[わかりたいあなたのための教養講座]
■テーマ学習_ 【<生命の質>と自己決定権〜出生前診断の波紋〜】
1 VTR:胎児診断(先天異常児の人工妊娠中絶)
2 選択の基準:  

生物進化論と社会ダーヴィニズム

環境と倫理

国際化と生命[世界と日本]

経済と倫理[マルクス]

下部構造は上部構造をここ迄変えるか?
  どこで線を引くか〜先天異常児から女まで

  選択の決定権〜ナチズム下の生殖・安楽死

内なる優生思想
  遺伝学は万能か(遺伝と環境)

  生命の南北問題
  

先進国(人工生殖,臓器移植,延命→安楽死・尊厳死)

開発途上国(人口抑制,臓器売買,飢餓)
 VTR:『ジョンが映画に出た』
3 自己決定権と選択:

  何が不幸なのか?

  社会の価値観(社会的圧力)と自己決定権

  個が個であるために
社会と個人   

社会契約説[ホッブズ,ロック,ルソー]

人倫[ヘーゲル]

自由と責任[カント,サルトル,フロム]
■テーマ学習_ 【<自分探し>への旅】
1 青年期の意味:イニシエーション,第二の誕生,マージナルマン 青年期と青年心理[ルソー,フロイト,ユンク,エリクソン]
2 自己の確立:パーソナリティ,アイデンティティとモラトリアム 実存主義[キルケゴール,ニーチェ]
3 女性の自立,男性の自立:

性的アイデンティティ

  セックス/ジェンダー/セクシュアリティ
ジェンダー論[イリイチ]

<らしさ>から<自分自身>へ

 [ボーヴォワール]
4 性をどうとらえるか:

  生殖,コミュニケーション,欲望

 VTR:映画『告発の行方』

性の神話を疑う/人間関係を語る性
出会いとしての性
5 <もうひとりの自分>との出会い〜愛する能力〜

  愛するということ 自分自身を,他者を(友情,恋愛)

           労働を,生きることを

イメージ・神話・思いこみ・偏見にとらわれない

自分自身の<内的な声>に耳を傾ける,

   <自分らしさ>を生きる

   多様性を認める

想像力〜異なる立場への〜を養う
 

 

再び,イドラ[ベーコン]からの解放
■エピローグ 【人間は動物を超えるか?動物に劣るか?】
  理性と本能

人間の限界と可能性
[ローレンツ]

[パスカル]


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日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)