病をめぐる生命倫理教育
Cultural history of disease: Bioethics education on disease
小 泉 博 明 Hiroaki Koizumi
東京・麹町学園女子高校 Kojimachi High School
pp. 26-31 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
[要旨]
現行の公民科倫理の教科書を検討すると,生命倫理に関わる項目が取り上げられているが,トピック的な内容に止まるものが多い。しかも,生老病死の中で,病気に関わるものがほとんどないのが現状である。そこで,1) 病気と健康,2) 病気の文化史,3) 文学が語る病気という3項目に重点を置き,病をめぐる生命倫理教育について論じた。とくに病気の文化史をテーマとした。
病気(とくに疫病)が文化交流により,特定の地域の病気から世界的流行(パンデミー)へと発展していく。天然痘(疱瘡)・梅毒・ペスト・コレラなど,民族・国家の命運さえも左右し,文化に深く影を落としている。病気の歴史的考察により民衆の痛みや叫びを追体験する。
また,ヨーロッパのペスト大流行においてユダヤ人の大量殺戮が,ハンセン病者に対しても本人や家族にスティグマ(社会的烙印)が押され,強制収容・隔離政策などの人権侵害が行われた。病者への眼差しと,共生のあり方をさぐる。
キーワード: ホモ・パティエンス(homo patiens) パンデミー(pandemic) スティグマ(stigma) キュア(cure) ケア(care)
1. はじめに
生命科学・先端医療技術の急速な進歩は,倫理的・法的・社会的諸問題(ELSI) を提起し,この問題の解決には社会全体の取り組みが要求される。とりわけ,生命倫理教育の果たすべき役割は大きい。医学・看護系大学だけではなく,他学部においても,一般教養として生命倫理教育の授業が構成されている。
このような状況下で,生命倫理の「生老病死」のなかでも,とりわけ病をテーマとした内容の取扱いがほとんどない。公民科「倫理」で<病気の人間学>について,地歴科「世界史」「日本史」で<病気の文化史>について言及している教科書は残念ながら少ない。
健康と病気をテーマとした生命倫理教育は焦眉な課題であるにもかかわらず,その対応が遅れている。近代医学にとっては,病気は征服し,排除するものであるが,かつてはなだめ,鎮め,馴れ親しむものであった。<病気の文化史>という歴史的な過程を見ることにより,病気への脅威の時代における病者への眼差しと,共生(共に生きる)のあり方をさぐり,現代に活かしたい。さらに,ハンセン病などに代表される病気への差別・排除について考えることである。また,現代のヘルシズムから健康と病気について改めて問いなおす必要がある。病気から,人間の在り方,生き方を学んでいきたい。まさに,<病気の人間学>という視座である。「生物」「家庭」「保健」などの他教科やHRなどの特別活動にも留意しながら,教科・科目という壁を取り払った総合的な学習が要求されよう。そういう意味でも,新学習指導要領の「総合的学習」を視野に入れながら,病をめぐる生命倫理教育について,より一層の授業構成をつくることが急がれる。
2.健康と病気
人間とは何か。さまざまな定義がある。例えば,道具を制作し,それを用いて必要な物資を生産するホモ・ファーベル(工作人)である。現代の先端医療技術の進歩は,ホモ・ファーベルの成果によるものである。移植医療も遺伝子操作というバイオテクノロジーの技術により,移植医療の最大の難関である拒絶反応を克服しようとしている。
「ブタに人の遺伝子入れ__移植用の臓器量産__英国企業が新技術開発」
(朝日新聞・1994年5月5日朝刊)
という記事が載った。移植医療の先進国である英国では,臓器不足が深刻化し,この新技術に対する期待も大きいようだ。わが国では,1997年6月に,紆余曲折を経て漸く,「臓器移植法案」が成立した。宗教・文化の相違も踏まえて検討する内容だ。その時の生徒との対話の一部である。
P:なぜ,ブタの臓器を利用するの?
T:人間の臓器と,ほぼ同じ大きさなんだ。とくに心臓のサイズはぴったり。もし,不治の心臓病で心臓移植をするしか生きる方法がなく,しかもの臓器不足で,ブタの心臓移植だったらどうする?
P:ブーブーBoo 何て,日本語が話せなくなるかも。それに拒絶反応で,トンカツが食べられなくなったり。。。。
T:どうする?あなた自身の問題として考えてごらん。
また,別の時間に,数字を答えなさいと,次の質問をしてみた。
<人間の死亡率は[ ]%である>
「世の中には,さまざまな統計があり,その中にはまやかしの統計もある。しかし,絶対に間違いのない統計が存在する。」(S・モーム)
よく考えれば,誤答することもない。まさしく,人間は死すべきものであり,人間の死亡率は 100%である。
現代は,「生老病死」のすべてが家庭内から乖離し,病院内の出来事になっている。病院で産まれ,老いては病院へ,そして病院で死ぬ。畳の上ではない。このように死がタブーとなっている現代では,3人称だけの死であり,2人称・1人称の死に思いを巡らしていない。死への思索が欠落しているのである。
さて人間は,不慮の事故もあるが,概ね病気で死ぬ。人間とは病む者である。まさにホモ・パティエンス(homo patiens) なのである。英語ではpatien ceは「忍耐」を,patient は文字どおり「病人を意味する。近代医学は病気を敵とし,病気を制圧することに奔走してきた。しかし,どんなに医学が進歩しても,すべての病気が治癒できるものではない。病気とは自己にとって他者なるものではなく,自己の一部である。人生とは,病気と共に生きる,まさに「共生」である。人は誰でも何らかの病気をもち,それと共存しているという根本的な認識が必要である。さらに言えば,人間は完成品ではなく,欠陥部品の入った,不完全なシステムとしての存在なである。
現代のヘルシズム(健康至上主義)は,健康であることと,正常であることを同一のごとく考える。例えば,人間ドックで,多くの検査項目の一つが「標準値」をほんの少しでも逸脱すると,それは異常であり,病気となりかねない。医者は,病気を診ても,一人ひとりの病人を診ることを忘れがちという所以である。現実に,病院で病人の取り違い事件があった。健康症候群に取りつかれ,健康という幻想を追い駆けている。わが国には,頭痛・肩凝り・癪などの持病という観念があった。また,病気と付き合い,馴れ親しむ「一病息災」とか「日にち薬」という言葉がある。今一度考えてみなければならない。
健康という幻想に生きる現代人は,ややもすると忘れているが,一昔前まで(なかには今でも)天災・飢饉・戦争に加え,ペスト・天然痘などが猖獗し,結核・麻疹・チフス・コレラなどの伝染病が,ごく身近なものとしてあった。ところが忘れていた核が顔を出し,慌て始めた。かつては,これらの病気に人々はのぞむべくもなく,風に舞散る木の葉のごとくに翻弄され,生命を失っていった。
文化は伝播し,異文化と接触し,受容し,新たな文化を創造していく。文化の発展は,物質的・精神的に豊かなものをもたらすだけでなく,病気の流行という<負>の異文化交流でもあることを理解しなくてはならない。病気は,局地的流行(エンデミー)から地方的流行(エピデミー),そして世界的流行(パンデミー) へと発展していくのである。
歴史の裏側に隠れて見えない病気が,時代の流れや一人ひとりの人間の生きざまに関わり,歴史を揺るがしている。もちろん,英雄の病死は歴史に関わるものであるが,疫病や飢饉に襲われて死んでいった名もなき民衆たちへの眼差しも忘れてはならない。
なお,病気の文化史では『病草紙』をはじめとする,ヴィジュアル資料の活用が,より一層生徒の興味を喚起させる。『病草紙』とは,平安末期の頃,京都や大和国で見聞した奇病を取扱い,絵巻物にしたものである。
また,医療の南北問題についても,考えておかなくてはならない。臓器移植における,臓器売買である。先進国では禁止されているが,法の網を潜り,発展途上国から臓器を買ったりする。腎臓は2つあるので生体から1つだけ売ったりしているようだ。富める者が貧しい国から臓器を買うということは,まさに南北問題そのものだ。実際に,フィリピンやインドでの臓器売買の実態が調査・報告されている。
体外受精では,代理妊娠を可能にした。代理妊娠契約とは,妊娠と出産を金で雇用した代理母に代行してもらうものである。代理母は,あくまでもビジネスとして,感情を交えずに契約を履行する。しかし,現実にはベビーM事件が起きた。ここにも南北問題が見え隠れするが,経済と同時に,文化・宗教などの背景にも着目する必要があろう。
天然痘の発源地については特定できないが,インドが有力である。そこから,異文化交流とともに,インドから仏教が各地に伝播していった経路とほぼ同じ道,すなわちシルクロード(絹の道)をたどって,天然痘が伝播していったのである。天然痘は,疱瘡・痘瘡などともいう。白地図に仏教と天然痘の伝播の経路を記せば,地図上で重なり合うことが確認できる。シルクロードをたどったのは,人・モノ仏教ばかりではない。隊商とともに,目に見えない病原菌も運ばれているのである。
天然痘は,奈良時代に大陸から侵入して以来,わが国に「風土病」のように蔓延し,大流行を繰り返した。『続日本紀』によれば, 735年(天平7)夏に九州は大宰府管内で流行し,737年(天平9)春には再び大宰府管内で流行し,畿内にも及んだと記録されている。藤原不比等の四子や橘諸兄の弟佐為も犠牲となった。「是の年の春,疫瘡大いに発る。はじめ筑紫より来れり。夏を経て秋に渉り,公卿以下,天下の百姓,あい継ぎて没死するもの,あげて計うべからず。近代よりこのかた,いまだこれ有らざるなり」とあり,多くの犠牲者を出した。
江戸時代になると,絶えず流行し,貴賤を問わず,この病苦に悩まされた。激甚なる大量死には至らないが,免疫性により,むしろ天然痘と馴れ親しんできた。しかし,死を免れても醜い瘡痕を残し,身体に欠陥ができたり,場合によっては失明した。わが国では,古代から疫病の流行のたびに,疫神を鎮める祭事が行われた。京都の祇園祭も,山鉾巡行が観光化されているが,本来は疫病退散を祈願するための祭りであり,その精神は今も継承されている。
江戸時代には,疱瘡神を祀った神社が多数あった。台東区谷中の笠森稲荷もその一つである。笠森とは瘡守という意味に転じ,疱瘡から守ってくれるということである。また赤絵も流行した。とくに疱瘡神(痘神)を退治したと信じられていた,鎮西八郎為朝の赤絵が疱瘡除の護符となった。赤絵には,「世の人の為ともなれともがさをも守らせ玉ふ運のつよ弓」と記されている。「もがさ」とは疱瘡の事である。
なお,この天然痘もWHO(世界保健機構)によると,1980年5月には,地球上から根絶し,もはや種痘も実施されていない。高校生は,腕に種痘の痕が残っている世代ではない。
コロンブスはヨーロッパに航海土産として,アメリカ大陸より金をはじめ,タバコ・ジャガイモなどをもたらし,大なる恩恵を与えると同時に,梅毒スピロヘータももたらしたのである。1492年コロンブス一行が第1回航海のときに,エスパニョーラ島(現ハイティ島)から,この「風土病」を持ち帰ることにより,またたくまにヨーロッパから,東方へと急速に蔓延していった。まさに,大航海時代の賜物である。わが国には明との海外交渉のなか,1512年(永正9)に梅毒が伝来している。ちなみに,日本へのヨーロッパ人のはじめての上陸が,1543年(天文12)のポルトガル人の種子島漂着である。驚愕すべきことに,梅毒伝来の方が,それよりも30年も早いということである。
梅毒スピロヘータがスペインに上陸したヨーロッパの15世紀末は,ルネサンスという時代であり,中世の重い性への抑圧から解放され,性への欲望が肯定された。このような性の解放と売春という状況が,梅毒スピロヘータの大流行の土壌となったのである。それから,約 500年を経過した今,エイズへの差別・排除が大きな問題となっている。日本学校保健会編の『エイズに関する指導の手引』(1992年)では,血友病治療の血液製剤で感染した「ライアン・ホワイト君」の事例が紹介されてはいるが,梅毒もエイズも性という人間の根本に関わる病気であり,また差別・排除という社会病理が生じている。エイズをとりまく諸問題(とくに人権)を考える場合,梅毒について考えることも必要であり,そこに繰り返してはならない過去の反省点を見いだすことになろう。
T:次回はペストについて勉強します。
P:えーっ!テストだって。何のテストするの?
これは,作り話でも笑い話でもなく,本当のことである。高校生にとって,今や恐ろしいものは,ペストではなく,テストなのである。
中世ヨーロッパにおいて1348年は,ペスト大流行の最悪の年であった。黒死病(ブラック・デス)と呼ばれたペストはヨーロッパ全土を襲い,その人口の4分の一あるいは三分の一を失ったといわれる。当時の人々の中には,ペストから免れるために群をなし,狂ったように踊り歩く「死の舞踏」や「鞭打ち」が行われた。また,ペスト大流行により,メメント・モリ(死を記憶せよ)という言葉が生まれたのである。
ボッカチオの名作『デカメロン』もフィレンツェからペストの来襲を避け,郊外の寺院に避難した男女10人が,一日一話づつ10日間話をして,百話を語る内容になっている。また,大量死という異常事態の中で,ペスト流行の原因が毒物撒布によるという流言蜚語があり,不運にも異教徒で,日ごろ憎しみを抱いているユダヤ人がスケープゴートに仕立て上げられた。理性を失っている状況下では,誰か一人が「ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだ」とひとこと叫べば,すべてを決してしまう。凄惨なユダヤ人に対する大量殺戮が始まったのである。
ペスト来襲による精神的パニックが,民衆の理性を喪失させ,異常が異常でなくなる狂信的な行動に駆り立てたのである。ナチス政権下の迫害に匹敵するようなユダヤ人の迫害をもたらした。このように,病気への差別・排除は患者やその家族に対してだけでなく,スティグマ(社会的烙印)が押されるのである。なお,カミュの名作『ペスト』の他に,『ロビンソン・クルーソー』で有名なデフォーに『ロンドンペストの恐怖』というルポルタージュがある。
疫病のなかでも,コレラはその国際舞台へのデビューは遅い。コレラは,母国のインドで「近代化」というパトロンを得るまでは,そのデビューの機会を窺っていた。コレラの故郷は,インドのガンジス川流域,とくに下ベンガル地域であり,そこに盤踞していた「風土病」であった。それが,国際交流の波に乗り,わが国へは「海上の道」をたどって上陸した。世界の「近代化」の進展と同時に,コレラのパンドミー(世界的流行)も並行しておきている。
わが国も,パンドミーの余波で,1822年(文政5)にはじめてコレラに見舞われた。その後1858年(安政5)には「安政のコレラ」という大流行をもたらした。
1858年と言えば,日米修好通商条約が締結された年でありペリー来航後から5年後にして,日本は実質的に世界に国を開いたことになる。これを契機に,尊攘・佐幕・倒幕あるいは世直しなど,さまざまな運動が交錯した。幕末から明治維新に至るまでの内憂外患の中には,安政の大地震やコレラの流行もあったのである。幕末の天変地異,疫病の流行が忘れられているようだ。
開国攘夷の動揺期でもあり,異国人が投じた毒物に起因するという流言も生まれた。明治になると,コレラ患者を救おうとした一人の医師が肝取りという流言により村民に惨殺されるという事件もおきた。消毒薬撒布も「コロリの種蒔き」と誤解され,さらには政府の強圧的な防疫政策に対する不信感が「コレラ一揆」という騒擾にまで発展した。
明治時代44年間のコレラによる,わが国の総死者数は37万余でありこれは日清・日露の両戦争の総死者数をはるかに上回っている。最初のコレラ一揆は,明治10年に岡山県の漁村でおこった。避病院への患者隔離と魚類売買禁止に端を発し,巡査・区戸長・医員のところへ押しかけている。その後,明治12年に頻発するが,病人の人権,生活を無視した強圧的な対策がいかに民衆の反発をかったかが窺われる。
3. ハンセン病
病原菌の発見者の名前をとり,ハンセン病というが,かつて「らい」と呼ばれていた。病気が進行すると,手足が麻痺したり,顔の形が変わることもあり,洋の東西を問わず,不治の業病として恐れられてきた。しかし,伝染力は極めて弱く,乳幼児以外にはほとんど発病の危険性がない伝染病である。まして今では,プロミンという特効薬があり,治癒する病気である。全国で新発生患者は年間で10人もいない。
しかし,1996年4月1日に廃止されるまで,わが国では「らい予防法」があった。1907年(明治40)に制定された「らい予防法」(旧法・法律第11号癩病ニ関スル件)は,実に90年にもわたり存続したのである。その内容は,終生にわたる隔離政策がとられ,強制入所や外出制限,断絶,中絶手術の強要などにより,患者の人権を著しく侵害したものであった。収容された患者たちは,あたかも罪人のごとく扱われ,外界との接触を生涯にわたり遮断されるという,差別と偏見の歴史であった。また,患者本人だけでなく,家族も就職や結婚などで差別された。このように,「らい予防法」はハンセン病患者と家族に対して,払拭しがたいスティグマ(社会的烙印)をやきつけ,今なお残る根強い差別の温床をつくったのである。
戦前は,内務省衛生局が,ハンセン病を根絶する計画をたて,農作業中でもトラックに乗せて収容するなど,強制的な政策がとられたこともあった。入所すれば,親が危篤でも外出を許可せず,逃げ出せば,逃走罪で監禁所に入れられる。また,現金は一切持たされず,家族からの送金,手紙,小包も開封して調べ,現金は療養所で保管する。しかも療養所だけで通用する園券(金券)があった。死亡しても,病理解剖され,火葬され,園内の納骨堂におさめられた。この差別・偏見がエイズ・難病・精神病などの人々に,繰り返されてはならない。
4.文学が語る病
スーザン・ソンタグは『隠喩としての病』の中で仰々しく隠喩で飾りたてられた前世紀の結核と今世紀のガンという2つの病を比較している。病気や病名が,病気本来の姿を離れ,社会的な意味を持つようになる。ことに,ガンは何よりもまず,その事件・状況が手の施しようもないほど徹底的に悪いものであると決めつけるときに隠喩として使われる。確かに,日常会話においても「○○がガンであり,うまくいかないなあ。」という風に意識せずに使っている。この事は,とくに留意する必要があろう。差別・偏見がこのように意識せずに進行していることを,生徒に気付かせねばならない。
柄谷行人は『日本近代文学の起源』の中で,結核で死んでいく浪子をヒロインとする,徳富蘆花の『不如帰』を取り上げ「注目すべきことは,浪子を死なせてしまうのが継母や姑や悪玉たちではなく,結核だということである。彼女を夫の武男にとって到達しがたいものとするのは結核である。人間と人間との間の葛藤があるいは<内面>が彼女を孤独にするのではない。いわば目にみえない結核菌が彼女と世界に距離をもたらすのである。言い換えると,この作品では,結核は一種のメタファーなのだ。そして,この作品の眼目は,浪子が結核によって美しく病み衰えていくところにある。」と論じている。
文学作品には何らかの形で,生老病死がテーマとして設定されている。生徒たちの人生経験と知識だけでは,生老病死を身近かなものとすることはできない。主要な登場人物の死を描写した文学作品は数多い。死に直面することで,その人物の人間性が明らかになる。死への問いは生の意義への問いかけでもある。また,身近かな人の死の体験も文学によく見られるテーマである。愛する人を失うという体験を通じて,自分自身の死と生にも改めて思いを巡らすようになる。残された人々の苦悩や悲哀もテーマとなっている。ここでは,「病」をテーマとした作品を取り上げる。作者・作品の背景を説明し,その作品の一部を抜粋するか,夏期休暇などの課題学習を実施する。例えば,トルストイ『イワン・イリッチの死』(岩波文庫)は短編であり,課題学習に恰好の作品である。
近代日本の俳句,短歌の改革者として著名な正岡子規は,肺結核から脊椎カリエスを併発し,死に至る5年間は寝たきりの生活を過ごさなければならなかった。しかし,創作意欲も衰えることなく,病床随筆を残した。『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』がある。夏目漱石は,1910年(明治34)8月24日の深夜,静養先の伊豆の修善寺で,胃潰瘍の大吐血で生死を彷徨した。その時の「修善寺の大患」を『思ひ出す事など』に書いている。また,自由民権運動の指導者であり,東洋のルソーと呼ばれた,中江兆民は喉頭ガンのため余命一年半の告知を受けた。そこで,身辺の記事から同時代の人物,政治,文学,芸能を思うままに論じたのが『一年有半』である。また,高見順は食道ガンでの闘病生活を『死の淵』に記している。
また,人体実験をテーマにした作品に,有吉佐和子『華岡青洲の妻』や,北杜夫『夜と霧の隅で』,遠藤周作『海と毒薬』などがある。とくに『海と毒薬』は1945年に,九州大学医学部附属病院でアメリカ軍の捕虜に対して行われた人体実験を題材とした内容である。渡辺淳一『白い宴』は,「和田心臓移植」を扱った作品である。その他,脳死・臓器移植を題材としたものには,加賀乙彦『生きている心臓』などがある。
短編ではあるが,梶井基次郎の『のんきな患者』は,看病する母親とのんきな患者である主人公が交わすユーモラスな内容である。2年前に東京から大阪に戻ってきた結核患者の吉田は,この町では結核でなくなる人が多く,しかも発病して亡くなるまでの期間が短いことに気づいた。迷信にすがってでも結核と闘う大阪下町の庶民の懸命な姿を描いている。その他,紙数の関係で割愛する。
生命倫理教育において,文学作品の活用は十分に効果が期待できるものと確信する。映画,あるいは漫画の活用もあるであろう。しかし,生徒の活字離れが進行化し,倫理での原典学習が困難になりつつある状況において,格調ある文学作品の一部であっても,読むことの意義は大きいものである。
文学が語る病については,すでに看護教育での先行実践があるが,今後どのように授業構成を進めていくべきか,筆者にとって,大きな課題となっている。
本稿は1997年4月19日(土)に,都立日本橋高校で開催された第3回「学校における生命倫理教育ネットワーク」勉強会での,発表内容に基づくものである。
その後わが国では「臓器移植法」による,脳死からの臓器移植も実施され,わが国でも本格的な移植医療の到来が近い。あるいは,遺伝子組み換え食品の安全性についての議論も盛んとなってきた。まもなく,ヒトゲノムもすべて解明されよう。このように生命倫理を取り巻く状況は目まぐるしく変化している。よって,ここでの内容の一部は,すでに古くなったものもあるが,<病の文化史>に関する記述では,とくに問題がないと思う。
ただ少し補足して置くべき内容がある。それは,病者に対する看護についてである。医者と患者の関係では,パターナリズムの克服による,インフォームド・コンセントなど,考えるべきテーマは多い。しかし,医者と患者だけでなく,看護に従事する医療スタッフや何よりも家族について,見落としてはならない。
ケアという語は広範な意味を持ち,看護,介護,世話,配慮などの訳語が当てられている。近頃は,現代医療がキュア偏重であるという批判と,患者へのケアが軽視されがちであったという反省から,ケアに対する重要性が論じられている。とくに生活習慣病が増加する中で,キュア中心の医療の限界性とケアの重要性が認識されている。しかし,この2つは,本質的に1つのものであって,ケアを包み込むようなキュアでなければならない。さらに「ケアの倫理」が提起され,「ケア」の概念を,ジェンダーや道徳性の問題として,とらえようとしている。
参考文献(平成9年度文部省奨励研究Bの研究成果の一部)
〇立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス)1971年
〇立川昭二『日本人の病歴』(中公新書)1976年
〇S・ソンタグ『隠喩としての病い』(みすず書房)1982年
〇週刊朝日百科『日本の歴史』97「コレラ騒動」(朝日新聞社)1987年
〇柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)1988年
Please send comments to
Email <
Macer@biol.tsukuba.ac.jp >.
日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)