生物学と生命観( 脳死の授業から)
How to teach about brain death in Biology
白石 直樹 Naoki Shiraishi
東京都立足立新田高校 Adachishinden High School, Tokyo
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naokis@aay.mtci.ne.jp >.
pp. 49-54 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
生物学で,なぜ脳死の授業を行ってきたかというと,(1)生物学的に正しい理解をした上で生徒たちが判断してほしい(2)脳死とは何か,自分自身の答えを得たい,という2点がきっかけだった。特集「生命と移植」1NNNドキュメント88 阪大特救部からの報告は,私にとって強烈な印象があり,これを「正しく」理解しないと大変だという思いは,脳死を広めようという意味もあった。しかし,生徒の反応に接するうちに,「専門的知識と脳死を受け入れる生命観は切り離せるか」「生物学は生命観とどういう関係をたもっていけばいいのか」と思うようになり,今では逆に,脳死を減らすべきだと思うようになってしまった。生徒の反応はどのようなものだったか。脳死を教えるときに,何をどう注意すればいいのか。この12年間の授業をふりかえって考えてみた。
キーワード: 脳死 細胞の生命と個体の生命 脳死の理解度と受け入れ度
1 はじめに
生物学は,「生物とはどのようなものか」「生命とは,どのようなものか」について,研究することはできるが,「生きているとは」「死んでいるとは」について研究できるのだろうか。はじめ,脳死は「脳の生物学的な死」であると思い,「正しい知識」を生徒に伝えることが重要だとわたしは考えていた。しかし,10年たった今,「脳の生物学的な死」は「脳死」の一部にすぎないと思う。「生物学で生命倫理をなぜ?」といわれることもあるが,脳死は,生物学が生命観に関わることを示す象徴のように思える。
2 脳死の授業について
私が教員になった頃,(日本医師会の生命倫理懇談会の答申では)脳死は,尊厳死として取り上げられていた。そのため,脳死を尊厳死の中の一つとして扱うことにして,すでに倫理を学んだ3年生の選択授業(生物)のレポートとして学年末の最後の授業でそれまでのまとめとして扱った。(1987年度 都立K高校)この方法は,生物学としては荷が重く,植物状態との混同もあり,基本的な「脳死とはどういうことか」を理解してもらう必要性を痛感した。
2年目からは,1年生の理科_(必修)の担当になり,細胞について学んだあと,組織,器官,個体との関連を学ぶなかで扱った。具体的には,NNNドキュメント88特集「生命と移植」の第1編(約25分)を使って脳死判定の説明と実際の様子(中学・高校生のバイク事故の例を扱っている)を見せ,自分と家族の場合について,脳死を死として認めるかYES/NOの形で答えてもらうスタイルを続けている。1991年以降は,それまでのアンケートの回答から判断して,家族の場合については,本人の意志(脳死を認める)が明らかか不明かに分けて答えられるように変え,それ以前は,本人の意思は不明であるとして扱った。
また,教育課程の移行期間の1994年は,生物の授業がなかった(私自身化学_Bを教えていた)ので行っていない。 都立A高校へ異動した1995年については,脳死を授業で取り上げることはしたが,環境の変化が大きすぎると感じて,継続した形でのアンケートは行っていない。しかし,1996年からは,あえてK高校と同じアンケートを行った。A高校では,1年生の生物_Aと3年生の生物選択で扱い,生物学とはなにか(最初の授業)として授業を行った。1993年までは,200人前後の対象生徒がいたが,1996年からは,100人強しかいない。統計的に扱ってはいるが,本来比較するのは適当でない。しかし,ここでは,「脳死を理解させるとはどういうことか」を考える材料としてみていただきたい。
3 参考 教材としたビデオの内容
大阪大学医学部付属病院特殊救急部での取材
救急車でバイク事故の少年が運ばれてくる。13才,友人のバイクに乗っていた。こうした瀕死の患者が年間300人近く運び込まれる,とナレーション。脳のCT,父親への説明,脳死状態であるとナレーション「新しい死である」脳死判定基準が示される。
立花隆氏登場,基準についての疑問「本当に脳が死んでいる状態でなく,もうもどれない,ということの判定である」が示される。医師の意見「世界的に見て20年以上も前から判定され,基準に問題はないと思う。」が示される。筑波大の脳死移植が移植学会で糾弾される様子,。和田教授による心臓移植の紹介,日本で心臓移植が途絶えているとナレーション。バイク事故で運び込まれる別の少年,開頭手術。はじめに運び込まれた少年,点滴と機械に囲まれ,病院のいすで泊まり込む父親。弁護士の意見「現在脳死を認める必要はない,誰が見ても,ああ死んだなとわかることが重要,判定をいつやるかで死亡時刻が動かされるのも問題で,簡単に認めるわけにはいかない。」
医師の意見「脳死は疑いもなく本当の死である,人が人として生きているというのは首から上が生きているかどうかということで首から下が生きているかどうかは関係ない。脳死になるまでが問題で,なってしまってからの手続きは大した意味がない」最初に運び込まれた少年,2週間後,14才の誕生日,「ご臨終です」と医師が告げ,たくさんのチューブがはずされていくシーン。「この2週間彼は生きていたというべきか死んでいたというべきか。」とナレーション。父親へのインタビュー「誕生日までなんとか生かしてくれと頼んだ。植物人間であっても生きていた方がいい。」
2番目に運び込まれた少年のリハビリシーン。母親へのインタビュー。「いつ目を開けてくれるかと信じて待っていた。臓器提供など考えられない。心臓が動いていたら,今の医学でははかりしれない,人がそんなことを判定してはいけないと思う」 日本医師会の生命倫理懇談会,「脳死は人の死である」と報告書発表。記者会見「事実上の死者をあたかも生きているかのように見せかけることがいいかどうか,人の死の尊厳を汚してはいけない。ICUで肉親がいろいろなパイプにつながれて死んでいくということがあればわかるはず。」ナレーション「脳死は紛れもなく死である。脳死者からの移植は多くの重症患者を救う。しかし国民は本当に脳死を理解したのか,脳死は人の死であるという社会的合意ができたといえるのか」・・・教材について
1 映像に迫力があり,高校生という身近な例など自分のこととして考えやすい
2 脳死に対して中立ではない。専門用語が多い。など補足が必要
授業プリント
脳死
〜生きているとはどういうことか〜
ビデオ「生命と移植」_脳死 より
1 心臓死
(1)( )が止まる
(2)( )呼吸ができない
(3)( )が散大(光を当てても閉じない)
医療機器レスピレーター( )器の登場:((1)と(2)解決)
2 脳死 (判定基準)
( )
( )
( )
これら5つが( )時間以上続く
3脳死を人の死としてよいと思いますか
1自分が脳死になった場合 YES NO
2大切な人(家族など)が脳死になった場合で
YES NO
(2) 本人の考えが不明の場合 YES NO
3感想。(脳死を人の死として法律で決めることをどう思いますか)
月 日 番氏名
( )
生徒の反応 (1)脳死をどうとらえているかアンケートの結果(数字は%)
1988 1989 1990 1991 1992 1993 1996 1997
自分 YES 63 71 53 69 69 78 41 49
※1 NO 24 28 45 31 28 19 50 47
? 12 1 2 0 3 4 9 4
※ 1 自分が脳死になったら死者として扱ってほしいですか
家族 YES 24 34 20 29 33 29 15 20
(不明) NO 61 61 72 71 66 64 75 67
※2 ? 15 5 8 0 1 7 10 13
※ 2 家族等,大切な人が脳死になったら死者としてあう勝手ほしいですか(本人の意志が不明の場合)
家族 YES − − − 63 59 70 48 35
(YES) NO − − − 37 39 26 43 53
※3 ? − − − 0 2 4 10 12
※3 家族等,大切な人が脳死になったら死者として扱ってほしいですか(本人が,死者としてほしいといっていた場合)死者として扱う=人工呼吸器などのたら死者として扱ってほしいですか機械を止める→呼吸停止→心臓停止となる。と,口頭で補足した。
全体的な傾向として,
1 7割前後は自分の脳死を死と認め,
2 6割前後は家族の脳死を死と受け入れない。
3 家族本人が自分の脳死を死と認めていても3割前後は,家族の脳死を死とすることに反対である。これは1993年まで共通する.
生徒からは,「もう生き返らないの?」「このままだとどうなっちゃうの?」といった質問が多く出された。これらのことは「ビデオの中で説明されているが,実感がわかない」というように感じられた。また「植物人間?」という混同もあり,なかなか「正確な」理解がしにくいのが,脳死の特徴のように感じた。
これらの結果から,脳死状態について広く知られるようになっため,自分の脳死については,ほぼ決着が付いたのではないかと感じていた。
しかし,自分の脳死についての左記グラフから明らかなように,1996年からは,それまでと大きく傾向が変わっている。
1 自分の脳死を死とすることに,賛成が半数未満である。
2 家族の脳死(本人の意志不明)を死と認めない傾向が強い(65%以上)
3 家族本人が脳死を認めていても,家族の脳死を認めない傾向が強い(4割から半数)。これらは,本来このような折れ線グラフでつなげる性質のものではないが,このようにすることで,1993年までと,1996年からの違いがはっきりすると思う。
また,「わからない」という答えの増加も見られたが,これについては私自身の姿勢の変化がある。もし現実に脳死状態となれば,「わからない」という選択はありえない。はじめはそう考えて「どちらかを必ず選ぶように」生徒に要求していた。しかし,「わからない」ままに,時間が過ぎていくことも,一つの現実的「選択」として考える余地がありそうだと思うようになり,「どうしてもわからなければ『わからない』でよい」と変えていった。
しかし,そうした面はあるにしても,1996年以降は,全体的に脳死に否定的だといえる。生徒の感想によると,特に,心臓が動いている状態で死とすることに強いこだわりを示す。例を示すと「心臓は動いているから。脳死を人の死とするのはいけないことだと思う」「心臓が動いていて血液も流れているから生きてると思う」「心臓が止まるまでは死ではない。医学的にみると死だけど,俺からみると死じゃないと思う」「間違っていると思う。心臓は動いているんだから,心臓が止まるまで待った方がいいと思う。」「自発呼吸がなくても,機械や医者の協力で少しでも生きていられるのならあきらめないで生きてほしいです」「機械でも心臓は動いているから,人の死とはあまり思いたくないし,認めたくもないと思う」「脳以外生きているので死んでないと思う」「脳が死んでも心臓が動いているので死んではいない。心臓が動かなくなったらもう手をつけることができない」「心臓が止まってこそ,人の死だと思う」「脳が死んでも心臓が動いてたら生きてると思う。脳に障害がでても生きてると思う」などがあった。
(2)学力差があると脳死の受け止め方に差があるか
K高校とA高校は,学力検査で平均の学校ともっとも低い学校という違いが大きいように思う。授業の雰囲気も,K高校は,全体的に静かで,時に反応がなさすぎるが,A高校は,全体的に騒がしく,授業から離れたあらゆる方向へ反応が拡散していく。 感想から紹介すると「バイクは危険だから乗らないようにしようと思う」と,教師の意図を深読みするようなものがk高校,「14才で死んじゃってかわいそう」というものがA高校では特徴的である。
検査をしなければ脳死かどうかわからない。ここに,「学力」が影響するのではないか,はじめ私はこう考えていた。脳死は抽象的である。分数でつまづく生徒にとって,心臓が動いていて,「脳が死んでいる」状態は「理解」しにくいのかもしれない。わからないという答えも多い。しかし,それでは,「理解」したら脳死を受け入れるのだろうか。A高校では,感想に「たとえ脳が死んでいても」と言うものが目立った。「理解」していると言ってよいと思う。この点では学力レベルの影響は受けていないと思う一方,別の点では「学力」の違いが影響すると思う,それは「まじめさ」といえるかもしれない。ビデオの内容は,基本的に「脳死は紛れもない死,ただし国民の理解があるか」と問う。専門家である医師が強い口調で「脳死はもう20年以上も前から世界で判定されている。」と語る。日常生徒に接している経験から,こうしたことを素直にそのまま受け入れる傾向が,K高校は強く,A高校は弱い。この点が,暗記で解ける問題の出来具合に影響していると言う実感がある。「生物は細胞でできている」と同じように,「脳死は明らかに人の死です」と暗記するとしたら,「学力」の意味が問われると同時に,脳死を「理解する」ことの意味が問われると思う。 この点で,「学力」レベルは,脳死を受け入れるかどうかに影響する可能性があると思う。
4 脳死の授業について考えていること
(1)脳死を理解するとはどういうことか
まず,もう助からないということを理解することである。植物状態との違いも,この点だけはふれる必要がある。それは脳死を受け入れるかどうかのポイントである。
次に,それは検査をしなければわからないということも理解する必要がある。脳死は見ただけではわからない。 この二つは,混乱を生じるもとでもある。もう助からないと強く意識すれば,実際の脳死状態を軽視しがちになり,脳死状態の実際を強く意識すれば,助かるかもしれないという気が強まる。生徒の感想にもそうした混乱が見られる。しかし,そのような混乱は,年とともに少なくなってきている。これは,社会全体の理解が進んでいるという背景が影響していると思う。以上の2点が理解されれば,脳死を受け入れるかどうかは理解度とは別であると思う。生徒の感想から見てみると,「脳が死んでも心臓が動いているうちは生きていると思う」と言う意見が,A高校で脳死に反対する代表的意見となっている。これは,脳だけを切り離して考えないと言う生命観(人間観)のあらわれではないだろうか。ビデオで,「首から下が生きてるかどうかはあまり関係ない」と言う専門家は,単に事実を述べているのではなく生命観(人間観)も含まれている発言ではないだろうか。私はそのようにとらえて,生命観の受け入れまでは生徒に求めていない。しかし,生物学の「客観的事実」と考えられている事柄に,生命観が含まれていることは多いのではないだろうか。出生前診断について「特に専門家と言われる人たちに差別意識が強い」という調査がある。専門的知識を学ぶうちに,特定の生命観も身につけてしまうとしたら,高校の授業ではもっと注意する必要があると思い生物の授業について考えてみた。
(2)生物学と生命観
(1)生物学と生命観の関わり
「受精は新しい生命の発生であり,受精卵がいのちのはじまりである」ということは,ただ事実を述べているようでも,「人の始まりはいつか」という生命観に関わると思う。胎児の映像が中絶反対の宣伝に使われたように,受精卵の操作技術の映像も生命は操作できるという生命観に関わるだろう。
遺伝の法則は,部品の集まりとしての個体のイメージを強め,遺伝子の支配を強調していないだろうか。遺伝子診断の背景には,遺伝子を絶対視する生命観があるのではないだろうか。
優性劣性と言う言葉も価値観をまとっている。医学的研究が先にあったのかもしれないが,色覚異常というように正常異常という言葉が使われやすい。色覚変異としている教科書が1社だけあったが,生物学の用語としては変異のほうが正しいのではないだろうか。
(2)生物の授業は生命観とどういう関係を保っていけばいいのか
たとえば,この生命倫理教育に関するネットワークで,都立南葛飾高校の鈴木宏治教諭が発表した「ウシの目の解剖」の授業で,多くの社会科の先生方からいわれた「生物がものになっていく」感覚が,私にはなかった。学生時代,人体解剖を経験しているせいかもしれないが,私自身授業でも扱っていて「慣れて」いるのである。生物の教員が慣れていなければ指導に困るが,そうした感覚は生徒に必要なものだろうか。この点で,解剖の位置づけを再考する必要があると思われる。ただ,解剖によって生命観が影響を受けるとして,それは専門家になるための必須項目かもしれない。ならば専門
家の生命観を社会全体の基準とするわけにはいかないし,授業でそれを求めることは行き過ぎであると思う。ただし,専門的知識がなくては,自己決定ができない。注意深く生命観と距離を置きながら,こうした問題を積極的に扱う必要があると思う。
脳死の授業から2
初めて2年生で生物の授業を行うことになったので,再び同じ授業を行ってみた。昨年は全員を教えたわけではなく(7クラス中5クラス),今年初めて教える生徒へのガイダンスの意味と,生徒の変化があったかどうかという興味もあった。「臓器移植法が成立して半年たっても実際の移植がない」という報道を導入に,授業をしてみた。
2アンケート結果 _全体の傾向としては,1998年のほうがYESが減りNOの回答が増えているが,家族本人が脳死を認めている場合のみYESが増えている。
100人ほど中退したので,中退者と進級者で差があったか検討してみた。上グラフのように,家族(本人が脳死を受け入れていたか不明の場合)の脳死について進級者は,中退者よりYESのものが多かった。(1997年)
(2) 昨年一度脳死の授業を受けていて(1997進),今年再び受けた(1998再)者を対象に,去年と今年で傾向に変化が見られたか検討した。(上グラフ)家族の脳死について,本人が脳死を認めていたかどうかで,YESとNOが逆転している。
授業は,家族が脳死になった場合に,本人の意思を重視するように影響を与えたと考えられる。
補足
1999年9月現在,脳死者をドナーとする移植は,定着しつつあるようである。しかし,授業では,意識的に切り離して考えるようにしている。移植は,脳死者からに限られたものではなく,脳死とは別の生命観で成り立っていると思う。,脳死に反対でも移植に賛成というのが生徒の多数派である。移植は,いのちのつながりを考えるとして,扱っている。
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日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)