Bioethics education and Interdisciplinary studies
田中 裕巳 Hiromi Tanakapp. 58-62 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
本発表は97年12月の定例研究会で行った。高等学校の新学習指導要領の告示(99年3月)以前であったため,中教審答申(第一次96年7月,第二次97年6月),教育課程審議会中間まとめ(97年11月)などにおける「総合的な学習の時間」のねらいや構想についても触れたが,この部分をカットし,筆者の勤務校での実践の紹介と提言の部分に限定して収録することとする。
2.高3選択科目・総合学習「生命について」の実践(1986年 - 1995年)
名古屋大学教育学部附属中・高等学校では創立以来,学部の意向もあってエリート校化を避け,地域の「標準的な学校」であることめざしてきた。学習意欲の乏しい生徒も少なからず混在し,とくに高等学校では学力格差の激しい多様な生徒がいる。本校の総合的学習は,そのような生徒たちに,いかに学ぶ意欲を自覚させて行くかという取り組みの一つとして展開されたものである。
高3総合学習「生命について」は,昭和61年から平成7年までの10年にわたって,総合学習に関心をもつ教師グループによって実践された。この科目は,3年生の選択科目の一つで,「現代社会」の増単として置かれていた。同時開講の教科(2単位)は理系用の理科と文系用の数学,英語であったので,この科目を受講した生徒は,文系でしかも数学も英語も嫌という生徒が大半であった。10年間で160人に及んだ生徒達の中には,総合学習という実験的な科目に対する教師側の熱い想いに共鳴して選択してくれた生徒もいたが,この科目も選択しないですむなら選択したくないという生徒が多かった。文字通り,「学習意欲の乏しい生徒」にいかに興味,感心を持たせるかが10年間の最大の課題であった。
10年間で160人の生徒とは,「ずいぶん少ないじゃないか?」ということになる。生徒数が少ないだけでなく,この授業は最初からTTを標榜していたので,教師も少なくとも2人はつけていた。しかしながら10年間継続したことによって,高校における総合学習の一つの先行事例を示すことができた。この授業は,4〜5月は主に教師による「生命について」のレクチャー,6〜7月は討論を中心とした自主研究,11〜1月は各自の発表と討論という年間指導計画であった。
教師によるレクチャーは,当初(最初の2年間)は中心メンバーの2人(数学・技術の徳井と倫理の私)以外に,数名の教師が協力を惜しまず,次のような講義が展開された。(1)生命の誕生(系統発生,神話・創世記の世界)(2)身体としての生命_(個体発生,成長・老化,性)(3)身体としての生命_(生殖医学,性別コントロール,先天的異常の判定,臓器移植と死の判定)(4)精神としての生命(霊魂について,大脳操作,生きているとはなにか)(5)生命の尊重(戦争と平和,自殺と殺人,現代のジェノサイド,法律上の生命観)(6)生命と労働(遊びと労働,労働の疎外)(7)生命の維持(環境問題,人口問題,食糧問題)_ 生命の共同存在(ことばの問題,ハレとケ,差別) のべ10数名の教師がこの授業に協力してくれたが,教科の専門性を生かしたり,自分の教科とはむしろ関係のない趣味の領域の話をしてくれた。いわば教師同士の“相互学習”の場といっても過言のない楽しいレクチャーであったが,その楽しさが伝わらない生徒はもちろん多かった。この教師によるレクチャーは,3年目からは中心メンバーの2人だけよる体制に変わり,その取り上げるテーマにも片寄りが生じてしまった。
「生命について」の総合学習が開始された昭和61年は,チェルノブイリ元年であったし,フロンガスによるオゾン層破壊の問題や脳死問題がTVや新聞でも本格的に取り上げられ,教師によるレクチャーでもこれらの問題は重点的に取り上げられた。自主研究で10年間に160人の生徒たちが選んだテーマは,先の_〜_の区分で整理すると,次のようになる(2学期から留学した生徒が1人いるため実数は159人)。
(1)生命の誕生4人(神話・創世記3,地球外生物1) (2)身体としての生命_9人(老化4,身体の障害3,性2) (3)身体としての生命_ 22人(脳死論5,脳死者からの臓器移植3,病気[エボラ出血熱など]3,代理母2,産科医療全般2,交通事故2他)(4)精神としての生命25人(心理15,死について4,インフォームド・コンセント2,精神医療2他) (5)生命の尊重32人(自殺・殺人13,戦争と平和8,ナチズム3,老人福祉2,教育問題2他) (6)生命と労働10人(スポーツ3,芸術3,遊びと労働2,過労死1他) (7)生命の維持38人(環境問題25タバコの害4,食糧問題・食品の安全性3,薬害・エイズ3,麻薬2他) (8)生命の共同存在19人(差別6,葬送と死生観4,動物3,運・運勢2他)
生徒たちが取り上げたテーマも多岐にわたっている。_で青年期や老人の心理など心理学的な問題を取り上げた生徒が多いのは,最初の2年で,養護の教師がこれらの問題を取り上げたことを反映している。また_のテーマは比較的少なかったが,スポーツや芸術の問題を取り上げる生徒がいて,教師側の当初の問題意識の狭さを反省させられた。スポーツや芸術には遊びの要素が多く,“生命の輝き”として,むしろスポーツや芸術を前面にだせば,もっと多くの生徒が取り上げる問題だったかもしれない。
環境問題は全体の16%の生徒が取り上げ最多であったが,25人の内訳は,“地球の課題”として環境問題全般に触れたもの6人,森林破壊と地球温暖化5人,原発問題やチェルノブイリ原発事故に関するもの5人,フロンガスとオゾン層破壊4人,ゴミ問題2人などであった。
10年間にわたる「生命について」の総合学習は「生命の尊厳(SOL)」を共通の認識としながら実に多様な問題群を取り上げた。生徒たちの自主研究は,新書の数ページをそのまま書き写して発表したり,新聞記事の紹介の域を出ないものが多かったと言ってよい。受験間近ということを差し引いても高校3年生の知性や思考力を十分に発揮しているとは言い難かった。しかしながら中には,修学旅行で訪れた沖縄で見た亀甲墓に関心をもち,墓制と死者の葬送との関係を調べたり,自分が中学時代に受けた教師からの暴力を取り上げ教師の“偏見”を分析したり,喫煙で特別指導を受けた生徒がタバコの害について調べたりするなどユニークなものも少なくなかった。
この10年間にわたる実践から,総合的学習の持っている意義を次のようにとらえることができる。それは,教科の学習では,子どもと教師との関係,子どもと子どもとの関係が一面的であるということである。「生命について」を選択した生徒たちは,授業の中での討論,自主研究の内容についての質疑応答で話し合ったことが,最大の収穫であったと異口同音に言う。少人数であったから各自の発言が常に求められたのではあるが,「生命について」というある意味では何でも包含されてしまう総合的な課題で,子どもたちは調べ,語ることができた。友達をトータルな人間としてとらえることにこの授業はつながっていたし,そのような授業に立ち合うことは,教師にとっても子どもをトータルな人間としてとらえることを要請した。
3.総合的学習の実践(2)・・・総合人間科について
新指導要領の下で,「生命について」のような実践は,合科的なあるいは教科横断的な総合的学習として取り組めるかもしれない。例えば,理科(生物)と社会(現社や倫理),保健と家庭科,家庭科と社会などなど。そういう試みもどんどん行われるべきだろう。
次に紹介するのは,平成7年から文部省の研究開発学校の指定を受けて,学校全体で取り組んだ新教科「総合人間科」についてである。中・高6年一貫教育の特色あるカリキュラムづくりの中核に「総合人間科」を位置付け,学校行事との結びつきを強めた。「総合人間科」の指導方法として,いくつかの特色を指摘することができる
(1)学年テーマの設定と総合的学習の系統性
学年 |
学年テーマ |
行事 |
中1 |
生き方を考えるI |
フィールドワーク |
中2 |
生命と環境I |
同上 |
中3 |
平和と国際理解I |
広島修学旅行 |
高1 |
生命と環境II |
フィールドワーク |
高2 |
平和と国際理解II |
沖縄研究旅行 |
高3 |
生き方を考えるII |
フィールドワーク |
中1の「生き方を考える_」から始まって,高3の「生き方を考える_」まで,「生命と環境」「平和と国際理解」を2回繰り返す構造になっている。いわば,環境や平和など現代的にして人類的課題を考えることを通じて,それを自分自身の生き方に結び付けながら,進路選択をして行くことをめざしているのである。
(2)学年担任団によるTT 担任と副担任で学年担任団を構成し,教科の違いを超えて全員で学年テーマを指導する。学年テーマと教科の関係には結びつきの強い教科,あまり関係のない教科がある。指導過程でその専門性がもちろん生かされることはあるが,担任団が教科に関係なく,生徒を学級よりも少人数のグループに分けて指導することが主眼である。
(3)教師の役割とゲスト・ティーチャー(GT)「総合人間科」の実施にあたって大学の附属であるということもあって大学の教員の協力も求めた。当初の名称はスクール・ボランティアであったが,さまざまな学部,研究センターの教員150名近くがボランティアとして登録してくれた。すでにその内の3分の1くらいが「総合人間科」の授業で各学年にレクチャーをしてくれたり,フィールドワークの際に研究室訪問を引き受けたりしてくれている。保護者のなかにもその体験や知識・技術を生かしてスクール・ボランティアになってくださっている方が20〜30名いる。スクール・ボランティアとして「総合人間科」の授業を担当してくださる方々はむしろゲスト・ティーチャー(GT)と呼んだほうが適切である。(公立の学校では,地域の人材を積極的にGTとして利用したい。)教師は,「総合人間科」のコーディネーターとしての自覚を深めている。「常に教える立場」よりも,子どもとともに環境や平和などの現代的にして人類的課題を「共に学ぶ立場」で良いのではないかという意識の転換である。
(4)フィールドワーク・・・直接体験,聞き取りの重視
「総合人間科」のフィールドワークは最低1日があてられている。学年テーマに応じて,自分の訪問先(原則的に午前,午後各1カ所)を名古屋市またはその近郊の範囲で自分で選ぶ。一人での訪問が原則で,訪問先との連絡・承諾もすべて子どもが行う教師はもちろん相談にのるし,経過の報告もチェックする。
訪問先では,かならず人(専門家や当事者や担当者)にあってインタビューをしてくることが義務付けられている。
(5)プレゼンテーションの重視
「総合人間科」の授業では子どもたちが人の前に立って発表したり,説明したりする場面が多い。それは学年テーマについての意見であったり,フィールドワークの予定や結果であったりするが,決められた短い時間で「自分の考えや体験」を語らねばならない。自己表現であると同時に,他者の発言に耳を傾ける他者理解の時間にもなる。紙芝居を作ったり,ペープサートを用いたりしてプレゼンテーションの効果を工夫する生徒も多いが,プレゼンテーション能力を高めることも総合人間科のねらいである
4.「生命の教育」としての総合人間科
「総合人間科」で「生命と環境」を学年テーマとしているのは中2と高1である。「生命の教育」と「環境(の)教育」はどのような関係にあるのだろうか。
中2と高1の「生命と環境」は,結果的に,中2では環境問題が,高1では生命の問題が中心となっている。文部省の研究開発学校としての取り組みに当たって,始めからそのように決定されていたわけではない。「結果的に」そうなったのであるが,理由はいくつか考えられる。
「生命と環境」というテーマは,中高一貫の本校では,中2と高1で以上のように力点の相違ができた。中2では自然環境や生活環境のさまざまな問題点を明らかにすること,高1では,さらに環境問題と人間の在り方,生き方の問題を結び付けようとしていると言える。
高1の生徒たちは,学年末に『生命と環境 122通りのアプローチ』という研究集録をまとめた。“名古屋のゴミ問題”,“森林破壊と環境問題”,“野性動物保護”,“食中毒とその予防法”などのオーソドックスなテーマと並んで,ユニークなテーマ,内容のものも多い。2,3紹介してみよう。
「人間というのは,どうして他の動物たちや植物たちを大切にしないのか」と日頃から考えていたT君は,“なぜ人間は残酷なのか”と言うテーマを設定する。教育学部の教育心理研究室をフィールドワークに選び,殺人,戦争,「キレる」のなど心理学的な分析を学んでくる。そして人間の残酷さの基底に人間中心主義,自分中心主義を見いだし,次のような結論を述べている。「いろいろなことを調べていて思ったのは,人はまちがった進化をしてしまっているように思う。そのまちがった進化の一つが人間中心主義という考え方で,人間が一番という考えは,他の動物を殺しても何も感じない感情をつくってしまい,時代は,人間中心主義よりもやっかいな自分中心主義というものになってしまっているような気がする。」
“性別と人間”をテーマに選んだAさんは「特別な動機はないが,とても興味をひかれたから」と書いている。人間性と性教育センター,私立高校で熱心に性教育に取り組んでいる先生の2箇所をフィールドワーク先として学び,トランスセクシャル,性同一性障害,インターセックス,ホモセクシャルなどの概念を整理し,問題点も考察している。例えば「トランスセクシャルについて言えば,手術がすんでも,戸籍の問題や,改名の問題がある。差別もある。」として,「今回,性別の問題を調べていて,最も強く思ったのは,人は違って当然なのだから,性別くらいで差別してしまうのはおかしい」,また「『性別くらい』なんて,さらっと言っていいことではないのもわかる」,「調べれば調べる程,問題は深くなっていく」と結んでいる。「人は違って当然」という認識は,性別だけでなく,人種,民族,宗教,信条などにも発展して行くことだろう。
“ココロとカラダ”というテーマのI君は,フィールドワーク先がなかなか見つからなかったが,長寿研究所を訪問することになった。そこで長寿の秘訣としての笑いの効果を学んでくる。「笑いが身体の免疫力を向上させる」,「笑いと自律神経の関係」,「笑いとカロリー消費」などをレポートして,「笑うこと(ポジティブな感情)が身体に大きな影響を与えることが分かった。そしてその逆である悲しみなどのネガティブな感情が,笑うことと正反対の影響を身体に与えることが分かった。」と結論している。たまたま訪れた長寿研究所で,I君は“感情と身体”の関係という,日頃の関心の深まりを果たすことができたようだ。
すべてを紹介することが出来ないのが残念だが,「生命と環境」というテーマで,人間の在り方や生き方にまで生徒たちの関心が向けられていることが分かる。
5.「生命の教育」実践の意義
高1の総合人間科「生命と環境」の実践は,1で触れた高3総合学習「生命について」の1〜8のテーマの多様性に近い。筆者は1〜8を「生命論の8区分」と読んでいるが,これは森岡正博が,『生命倫理,いま問われているものは』で指摘したバイオエシックスの11の課題とかなり重なりあう。
もちろんこれはバイオエシックスの課題として示されたものであって,「生命の教育」の課題として示されたものではない。しかしながら,生徒たちの自主研究では,8の「医療研究と応用制御」を除いて,ほとんどの領域に踏み入っている。また10の「健康と生命」という課題については,環境倫理学,生命学も例示しているが,生徒の自主研究では,健康と生命を脅かすものとしての公害などの環境破壊や戦争,また逆に,健康と生命の安全のもとでの人間の諸活動(特に芸術やスポーツ)の意義を明らかにする豊かな視点を示した。
「生命の教育」は,従来の生命倫理学の人間中心主義,近代的所有権理論の限界を越え,環境倫理学の地球全体主義,世代間倫理に学んで行く必要がある。子どもたちのなかには,盲導犬を始めとする動物たちとのパートナーシップの意識や絶滅種への危機感がある。これらは「生命の教育」として,重要な領域といえる。しかしながら,子どもたちは,人間の老化や死を自らの問題としてとらえることは苦手である。
人間が生きものである以上,病気や老化や死を免れることはできない。「健康」を至上のものとして病気,老化,死を忌避する生命観ではなく,それらを人間の必然として受け入れ,他者の病気,老化,死を自らの「痛み」,「悲しみ」として同情(sympathy)できる生命観を育てたい。「生命の教育」は同時に「死の教育」でもなくてはならない。
最後に,総合学習のテーマとして,国際化,情報化,高齢化などとならんで,「生命」の問題を正面から取り上げる必要があることを強調したい。生命の尊重・尊厳(SOL)が国際化,情報化,高齢化などの前提とならなければならないという理由だけでなく,現代のこどもたちが都市化や少子化の影響を受けて,自然との豊かな接点を失い,他者の生命との交流の機会を奪われているからである。また人間の生と死が,病院内のできごとと化すことによって,こどもたちの目から隔離・管理されている。生と死の教育として「生命の教育」が必要とされる,こどもたちの置かれた状況である。
村瀬学氏は,『「いのち論」のはじまり』(JICC,91年)で,「いのち」論の多義性について論じている。村瀬氏は,「人間」の根拠として,「考言歩としての人間」と「生食−死としての人間」の両面を分析し,前者は「規範」によって生き,後者は「倫理」によって生きるとする。生食−死に対応して,考言と歩の間にも次元の違いを感じるが,前者は近代合理主義の人間観であり,後者はそれによって切り捨てられてきた人間観である。たしかに「生食−死としての人間」こそが,人間非中心主義の生命倫理,環境倫理の前提になり得ると思う。総合学習「生命について」や「総合人間科」の実践はこの「いのち」論の多義性に通底して,生命倫理にも環境倫理にも,そして宗教や芸術,スポーツにも発展させることができた。それは対象とする領域の明確さや方法の独自性といった学問としての体系やパラダイムを求める必要のない“総合的学習”だからこそ許されるものと言えるだろう。
日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)