生老病死と生命倫理教育−生老病死をどうやって教えるか?

Bioethics Education about Life, Aging, Disease and Death

三浦 俊二 Shunji Miura
埼玉・草加西高校 Soukanishi High School, Saitama

Email: shunnji@mua.biglobe.ne.jp

pp. 73-74 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。


いわゆる生老病死というのは,仏教的世界観として四苦八苦の言葉にみられるように現実世界を生きていくための心構えを示したものであった。ところで,科学技術の発達した現在,我々の意識の中にはこうした「苦」の世界を克服したものとしての「快」中心の生き方が理想とされる。そしてここに落とし穴がある。どんなに医療技術が進んだとしても,いわゆる「不治の病」がなくなることはない。やはり「死」はおとずれる。

 こうした諸問題をあらためて整理していったのが生命倫理であったのだが,それによって我々の「生命観」はどのように変容しうるのであろうか。言い換えると「生命倫理」は,「生老病死」観を果たして越えていけるのか,である。このことについて考えていきたい。

キーワード: 生老病死 DNA 生命 いのち 人権思想 幸福追究権 自己決定権
1.「生命」とは何なのか 

そもそも「生命」とは一体なんなのか。遺伝子,ゲノム,分子生物学, DNA,など生命についての様々な局面が表現されてきた。そして,今日のゲノム論に至っては,これまでの生命観を転換させるものである。これは,いわゆる自然像の分裂であり,自然1(所与の自然),自然2(人工の自然)という局面の中で我々が直面する顕微鏡下(テクノロジ−)の自然といえよう。このため生命と言うよりも 生命というコトになってしまう。生命について論ずる際,気をつけなければならないのは,生命の歴史と,生命観の歴史とが一緒くたになってしまい,どこまでのレベル(あるいは,どの時代の)で論じているのやら訳わからなくなってしまうことである。つまり,顕微鏡下の生命と,「いのち」と言ったときの局面がどうずれていくかについては,確認のしようがないのである。また,生命論的情報理論からする生命とは,コトとしての生命になってしまうのである。このように生命の様々な局面から発生してくる論理の混乱がこの問題の複雑さを表しているといる。

 つまり,生命を教えることは,そもそも可能なのだろうか,と。

2.死の変容と生の変質

 先日,NHKのある番組で高校生達の討論がありその中である生徒が「何故,人を殺してはいけないんですか」と主張していた。彼は,しごく真面目にこのことを主張していた。このようにいまや「生(いのち)」と「生命」とは分離されたままで存在する。

 この時「生命」の情報は,「生(いのち)」とは別物の或る何かでしかない。しかしながら本来,「生(いのち)」は,自己の情報を「生命」と認識しつつまたそれ以上の何者かとして意識する「生命」であるといえよう。従って「生命」であると同時にそれを乗り越えて存在する「生命」である。この自己規定(否定)によって「生命」は,自己の「生命性」を否定するともいえよう。ところがこうした「生命観」の変容は,同時に死生観を変質させあたかも生と死が全く別ものとして認識されているのである。そこには,豊かな社会によって生じた薄れゆく生命観(死生観)と言うべき状況が横たわっている。

 生の延長あるいは,裏側としての生命観(このことこそ生老病死思想だったと思えるのであるが)がそこには失われてしまっている。

3.生老病死を如何に伝えるのか。

いわゆる「生命」を教えられなくても「生命観」を教えることは可能である。現代の生命観の揺らぎの中で,一体誰が,何時,何処で教えるのか。それは,例えば 性を教えるのと同じように不確かなものである。しかし,現実社会に於いて我々は,老いをいかなる意味でとらえているのだろうか。生物学の死角としての,アトポーシス の問題は,死ぬべき生として,或いは,死ぬべき性として我々の死生観を根底からくつがえすかもしれない。しかしこのことが,「生命」について論じたものだとしても,「いのち」について論じているのだという保証にはまったくならないのである。例えば,ゲノムについて教えることは,確かに生命の不死について教えることになるかもしれないが,果たして「いのち」の永遠性について論じたことになるのだろうか。

4.近代的人権思想の落とし穴 

 近代的人権思想はいわゆる「自由論」をへて,所有権理論として確立される。しかし,ここに落とし穴が実はあったのだ。神を否定し強い個人を前提に成立した人間の尊厳性は,ここにきてその不可侵性をゆるがせることになる。自己決定権は,「産む自由」を与えると同時に,「生命の尊厳」と対立する。

 この時,新しい意味で自由な決定,もしくは幸福追求権は,生命の不可侵性を否定することとなる。例えば,2つの死を前提に成立する臓器移植は,2人の幸福追求権を果たして調整出来るのであろうか。

 こうして社会全体がジレンマに直面することとなる。言い換えると「生命」の不可侵性を侵すことによって成立する現代医学は,まさにその限界を再び「生命の尊厳」によって埋めざるをえないのである。

 現代医療が,治療することと同時に「死をもたらすこと」この両面性を持つに至ったことこそがこう

した問題を一層複雑にしているといえよう。(しかしこのことは,メダルの表と裏の関係にあるといえよう。)

5.生命倫理を教える意味と意義

自己決定権,幸福追究権等人間のエゴイズムは,とどまるところを知らず,その展開は,テクノロジ−と共にパンドラの箱を開けてしまったかのようである。「生命の尊厳」と「生命の質」というふうに分離された「生命」の二つの局面が一体何時から対立し始めたのか誠に難しいテ−マではある。このことを「いのち」と「生命」の違いだよとは必ずしもいえないのである。そんな混乱の中,我々は,すぐにも様々な問題に直面する。HIVにせよ,出産にせよ病院化社会の中で個人という者は,全く無力なものである。そんな個人の無力感を支えるものとして「生命倫理」はあるのかもしれない。仏教思想が,到達した「生老病死」の思想はながらく日本人の感性に取り入れられ,ある種の「諦観」が世間に定着したといえる。しかし医療技術の進化によってかつての「生老病死」観は,エゴイズムの矢面に立たされることになる。そしてこの「生命倫理学」は,生老病死観に取って代わりうる新しい視点を提供することを要請されているように思えるのである。

以下に「生命観」「病気観」と「生命倫理」の 歴史的展開を模式図としてまとめてみました。
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日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
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