pp. 75-78 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
キーワード: 空洞の世代 エイズ教育 性教育 男女共生 課題研究 新聞活用 VTR活用
1.「空洞の世代」に「生命(いのち)の教育」を
『月刊高校教育 1997年11月号』に「『心の教育』を考える」という特集が掲載された。このなかで清水賢二日本女子大学教授は,「非行少年の精神世界と『心の教育』」と題して以下のような論考を展開した。今日の少年世界は,終戦・高度経済成長に続く第三の転換期である。少年少女たちの中に,「自己感覚」「他者感覚」「社会的規範軸」のすべてを喪失したものが現れはじめた。援助交際,薬物乱用,オヤジ狩り,神戸での殺人事件など。自分にも他者にも,まして世の中には何も感応することのない,感応することができない「空洞の世代」が誕生しつつある。遠藤友麗文部省中等教育局視学官は,最近の大人も含め社会に蔓延している現象として「ファイブ・ノン現象」を紹介している。(1)Non Spirit(よりどころなき精神),(2)Non Conscience(呵責なき良心),(3)Non Dream(夢なき日常),(4)Non Real Experience(現実体験なき認識,バーチャル認識),(5)Non Confidence(信頼なき人間関係)。大人社会を敏感に嗅ぎ取る高校生たちは,「ファイブ・ノン現象」にむしばまれている。
中教審において,高校教育とは「自分さがしの旅」を援助することをめざすものであり,個性の尊重を一層押し進めるべきであるとされている。「自分さがしの旅」は,他人と出会い,自分を振り返り,社会の一員へと成長する旅のはずであると私は思う。清水教授は,「空洞の世代」に対応するためには,自分の存在に直接係わり,他者の存在の重さを意識させ,諸規範の根本要因ともなり得る基本言語が必要であると考える。従来の「心の教育」は新しい空洞の世代に対しては頭ごなしの教訓を述べて終わることになりかねない。教授は,新たな基本言語の一つの候補として「生命(いのち)の教育」をあげている。阪神大震災の経験からも,生命の重要さを否定することはどんな子供にも困難であり,具体的で,可視的で,現実の問題である。オランダには「健康教育」という営みがあり,日本の風土に応じた「生命(いのち)の教育」の系統的カリキュラムが形作られることが期待されると述べている。
文部省の教科調査官であった横山利弘先生監修の『在り方生き方教育』(学陽書房・平成6年)においても現代の教育課題の最初に「生命倫理」があげられている。以下の項目は国際理解教育・人権教育・性教育・消費者教育・情報教育・環境教育・福祉教育であるが,「生命(いのち)の教育」という観点で考えれば,人権・性・環境・福祉の項目は密接に関連している。
「生命(いのち)の教育」の系統的カリキュラムを作り積極的に実施していくことは,緊急の課題である。しかしながら,具体的に学校教育のどの時間で実施できるかが問題である。高等学校では平成14年度から実施予定の新学習指導要領において,公民科の必修科目が,「現代社会2単位」か「倫理2単位+政治・経済2単位」のいずれかを選択して履修することになる。完全学校週5日制の実施にともない「倫理」の授業が行われず,「生命(いのち)の教育」を展開する時間が失われる可能性が高い。「現代社会」を履修する場合,倫理的内容は少なく生命倫理の授業は行われない高校が大部分になると予想される。私は「倫理」ないし「現代社会」の倫理分野を必修化する必要があると考える。「生命(いのち)の教育」は,全員に教えられるべき内容であり,教科のなかに位置づけられ積極的に推進しなければならない。現実的には公民科の「倫理」「現代社会」での実施は難しい状況になるとすれば,小中高と一貫して新たに創設される「総合的学習の時間」での実施を期待する以外にないように思われる。学校現場に「総合的学習の時間」が定着するか心配ではあるが,国際理解・環境・健康・福祉について教科横断的に学ぶ時間は「生命(いのち)の教育」の場として活用すべきである。
2 「生命(いのち)の教育」をめざして
私自身の「生命倫理」への関心は,昭和60年(1985)までさかのぼることができる。前任校である大洗高校の社会科の紀要に載せた「科学と倫理−機械論的自然観の考察−」と題する小文のなかで,近代医学の発達の前提にはデカルトの生体機械論があることや分子生物学の問題点を取り上げている。この小文の中で臓器移植の一般化・人工臓器の開発・生殖医学の展開・遺伝子治療の開始などにも言及している。同年に「人口問題で人間を考える」と題して,「乳幼児期の大切さ」「産むことの選択」という授業の展開例を発表した。後者は,その当時の羊水診断法による米国の「ロングフル・ライフ(間違いの命)訴訟」を取り扱ったものであった。
平成元年(1989)には「全国高等学校公民科『倫理』『現代社会』研究会」(略称「全倫研」)の研究大会において,「『生命と倫理をめぐる諸問題』を教材化する試み」と題して,3年間の実践を報告した。発表は8つの項目で授業案のスタイルを採っていた。レジメに従えば,項目の主な内容は以下の通りである。この発表では,生老病死のうち老への取り組みがなかった。
(1)産むことの選択…日本の人工中絶,人間のいのちの出発,試験管ベビーの誕生,代理母,精子銀行,男女産み分け,胎児診断と選択的中絶,中絶胎児の利用。
(2)大切な乳幼児期…乳幼児死亡率の低下,7歳までは神のうち,ヒトの進化,生理的早産,子宮外の胎児期,臨界期,人間の言語の発達,野生児,隔離ザルの行動異常。
(3)人間の攻撃性…2大タブー,動物の種内攻撃,霊長類の子殺し,人間の攻撃性,脳の側性化,左脳の発達,武器の獲得と種内攻撃抑制能力の無効化,霊長類の特徴。
(4)天然痘の警告…インディオの衰退と疫病,生物兵器ウイルス性伝染病,天然痘,種痘とその後遺症,バーミンガム事件の衝撃,フランケンシュタイン・シンドローム。
(5)時代を語る病…アテネの疫病からエイズまで,いわれない差別癲病,黒死病ペスト,文明は梅毒,衛生の母コレラ,白いペスト結核,インフルエンザ,ラッサ熱の恐怖。
(6)病いの現代…禁忌としての死,死の野生化,現代のmemento mori AIDS,「隠喩としての病い」癌,癌の告知,境界不鮮明時代の常識の病理「精神分裂病」。
(7)メメント・モリ…タナトロジー,鏡像認知と自我の芽生え,時間の経過・死の認知,日本人にとっての死,未来という時間,不死への挑戦,コンピュータと脳。
(8)脳死の人…動揺する死の定義,脳死の判定基準,日本の臓器移植,脳死身体の各種利用,死ぬ権利・死なせる権利,日本人の遺体観念,当事者の死。
この発表後,生命倫理への取り組みは,後述するエイズ教育の実践や「倫理」および「現代社会」の資料集作成などで細々ながら継続してきた。平成11年刊行の『テーマ30 生命倫理』(教育出版)においても,「エイズとSTD」「尊厳死と安楽死」「死生学」の項目を担当した。平成11年11月刊行予定の『「総合的な学習」,こう展開するシリーズ「生命の教育」』(清水書院)では「臓器移植と身体利用」「薬物乱用」「自殺」「殺人」の項目を担当している。平成10年夏に庄司進一筑波大学教授の「臨床人間学」の実践をおうかがいし,今後の生命の教育への大きなヒントをいただいた。
文部省の若手教員海外派遣により平成2年(1990)9月から11月にかけての2ヵ月米国バージニア州で研修する機会を得た。講義式一辺倒の日本との違いを痛切に感じ,指導方法の重要性と時事的材料の大切さを再確認した。帰国後『AERA』『ニューズウィーク日本版』など数種類の雑誌を定期購読するようになった。ドラッグ問題の深刻さも印象に残ったことの1つであった。
平成3年度の全倫研秋季大会全体協議において「新『倫理』指導(私案)」と題して,5項目の提案を行った。その4番目の提案が,「現代社会」の成果を引き継ぐものとしての課題学習の実施であった。a生命倫理,b人種・民族問題,c環境倫理,d人権問題,e家族・男女差別の5テーマから1つ選び,各生徒の自由な主題設定により小論文を作成させようというものであった。
平成4年度には,学校保健会発行のパンフレット『AIDS 正しい理解のために』並びに『エイズに関する指導の手引』の作成に携わった。文部省の石川哲也調査官,全性教の田能村祐麒先生,薬物乱用防止教育の小林賢司先生,原田幸男先生などとご一緒し,性や薬物乱用の問題を勉強することができた。エイズに関しての授業実践例は,大成出版社から刊行されている『性教育指導マニュアル−性教育の理論と実践−』の追録第4号に掲載した。平成5年度から7年度まで茨城県のエイズ教育プロジェクト委員となり,公民科における授業実践を行った。3時間分の指導内容の概容は,以下の通りである。
(1)導入…学校や職場などでの日常生活では感染しないことの再確認。 展開…ライアン・ホワイト君の教訓に学ぶ。米国企業のエイズ対策と日本企業の対応。エイズ患者・HIV感染者のプライバシーの保護を。人権に配慮したエイズ対策の重要性。 まとめ…人権意識の高い国家への脱皮を。(2)導入…アリ・ガーツの物語。米国西海岸観光旅行で感染したS子。 展開…エイズを人間の性を考え直す契機に。HIVは性習慣の変化を要求している。PWAを守る社会へ。介護体制の充実を。 まとめ…血友病HIV感染者の早期救済を。(3)導入…「性は自由か否か」についてのディベート資料を読む。 展開…一気に解放された日本人の性。10代の妊娠と避妊。タイ・インドでなぜエイズは激増したか。アフリカの悲惨な現実「エイズ孤児」。 まとめ…「性は自由か否か」について自分の意見をまとめる。また,田能村先生から機会をいただき,『教職研修ボーダレス・シリーズ_3 性の問題行動と指導1995年7月増刊号』の「37セックス産業を利用する子どもに対してどう指導するか〈高校〉」を担当し,「買売春」の問題について考察した。前記の『テーマ30 生命倫理』においても,「エイズとSTD」の項目を担当し,エイズと共生する人間社会,エイズと人権,エイズと女性・子ども,薬害としてのエイズを取り上げた。原田先生が事務局を務める「健康行動教育科学研究会(通称5K会)」が,毎年開いているアルコール健康教育並びに薬物乱用防止教育の研修会にも参加する機会を得た。健康教育におけるライフスキル教育を知ったのは,この研修会を通してであった。メイサー先生監修の『「総合的な学習」,こう展開するシリーズ 「生命の教育」』(清水書院)において「薬物乱用」の項目を担当した際には,この研修会で学んだことが助けとなった。 平成6年4月に全く予想しなかった女子高勤務を命じられ,女性の側から視た社会がどのようなものであるかを強く意識するようになった。平成7年度末には公開授業「女性の地位と役割」を行っている。取りあげた項目は,1性別役割分担意識に変化はあるか?,2男女雇用機会均等法10年,3リプロダクティブ・ライツの保障をであった。男女共生の視点を忘れずに授業するように心がけてきた。教科書には女性がほとんど登場しない。過去において女性の地位が高くなかったことによるとは思われるが,男性の視点から教科書が作られていることも理由である。私は授業の中で女性を意識的に取りあげてきた。たとえば環境問題では,『沈黙の春』のレイチェル・カーソン女史,『奪われし未来』のコルボーン女史,『苦海浄土』の石牟礼道子さんなどである。生命倫理の問題では,柳澤桂子さんや千葉敦子さん。性やエイズの問題では,産婦人科医の河野美代子さん・ジャーナリストの櫻井良子さん。国際理解の分野では,犬養道子さん・緒方貞子さん・辻元清美さんなど。教科書には3名ほどしか登場しないが,20名以上の女性を取りあげている。このころ門内正美先生を中心に作られた令文社の『資料人物・新倫理』が刊行され,現代の人物を積極的に紹介していたのにおおいに刺激を受けた。女性だけでなく,エイズの問題では,川田龍平さんやアーサー・アッシュ氏を取りあげたり,ノンフィクション文学の内容を紹介するなど現代の人物に焦点をあてた授業をめざしている。3 「生命(いのち)の教育」の進め方 公民科の「倫理」あるいは「総合的な学習の時間」いずれの時間での実施であれ,今後も継続していきたい考える方法は,課題研究(新聞作成),新聞記事の活用,VTR教材の活用である。 課題研究は,夏期休業中の課題としてずっと継続実施してきた。研究成果は,レポート・小論文の形ではなく,B4サイズの新聞として提出させている。大学入学試験の小論文問題に取り上げられた新書・文庫200冊ほどのリストを参考書としてあげ,それらをいくつか読んで新聞を作成することを義務づけている。テーマはあくまでも本人が興味・関心にもとづき決定するとの趣旨から,さまざまな分野の新書・文庫を取り上げている。実施して5年になるが,「生命倫理」に関する新聞は環境倫理に次いで多い。作成した新聞をクラスで発表し,現代社会の倫理的課題について友人から刺激を受けることができる。 私は毎時間複数枚の自作のプリント教材を配付しているが,その裏面には新聞記事のスクラップの中から倫理に関わるものを選んで掲載している。中教審においても教育における「不易」と「流行」を見極めることが強調され,知識の陳腐化が早い現代では,過去の知識の記憶ではなく,自分で課題を見つけ,自ら考え,自ら問題を解決していく資質や能力をこれからはぐくむべき重要な「生きる力」として強調している。大学入学試験の小論文対策という観点で私が選んだ題材のため,生命倫理関係は多めとなっている。授業の進度とは必ずしも関係はなくその時期に話題となっている新聞記事を掲載している。生徒たちによる新聞切り抜きの発表も実施を検討してはいるが,実施校では内容的にもの足りないとの反省も多くいまだ実施していない。 最後にVTR教材の活用であるが,ドキュメンタリー番組を中心に積極的に実施してきた。良いドキュメンタリー番組が続々制作されており,教材は豊富にある。生徒自身がメモを取り,内容をまとめて,感想を書くプリントを必ず用意している。昨年度は,3〜4時間に1度の割合でVTRを活用した。基本的には,40分前後に編集しており,著作権に違反しないように市販されているものは購入する。昨年度は,生命倫理関係では,『インターネット地球法廷 生命倫理』,柳澤桂子さんのビデオや日本の主な薬害事件を紹介したVTRなどを視聴し,環境倫理関係ではレイチェル=カーソン女史の生涯やコルボーン女史の業績を紹介した『未来潮流』を教材とした。これまでの「倫理」の授業では,「ボノボのカンジくん」,「高史明さんの講演と安藤忠雄さんの小学生への授業」,「ムンクと尾崎豊のドキュメンタリー」,「ヴィクトール・フランクルのインタビュー」,「神谷美恵子さん」,「永井隆博士」,吉永小百合さんの「原爆詩集」の朗読ビデオ,加賀乙彦先生の出演されたビデオ「聖書の大地」,イスラムの巡礼のビデオ,「ブッダ」,「永平寺」,「故宮」「世界遺産曲阜」などを視聴させた。将来「総合的な学習の時間」で活用するならば,NHKのシリーズ「20世紀を越えて」や「クローズアップ現代」などから優れた番組を選んで視聴させたい。
日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)