総合科目『臨床人間学』の提言〜筑波大学教養教育における試み〜
Lessons from clinical anthropology classes at the University of Tsukuba
庄司進一 Shin'ichi Shoji
筑波大学 臨床医学系 University of Tsukuba, Institute of Clinical Medicine
Email <
sshoji@md.tsukuba.ac.jp >.
pp. 83-86 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。
1.教養教育としての『臨床人間学』
a.教養とは何か
教養というのは,人間性を持つ事であり,人間性というのは人間というものを知って個人を尊重する心にほかならない。人間を知るというのは,大変難しい事ではあるが,人間の生老病死を通して人間を考えるという事がそのもっとも早い道ではないだろうか。
また個人を尊重するという事は,個人個人の価値観が非常に多様であるという事の実感を通して学んでいく方法がある。まったく同じ環境にある,同じ筑波大学の1年生であっても,一つの事について討論してみるとみんな違う。10人いれば10人皆が価値観の違う事を知って,初めて個々人の価値観は違うのだという事が分かり,個人を尊重するようになるのである。
教育は,生き甲斐の創造である。初等教育から高等教育に至るまで,生き甲斐をつくっていくのが教育である。そして,生き甲斐とは,人間を知ることで,またここに戻っていくわけなのだ。従って,人間を知るという事が,私達自分自身が生き甲斐を持って生きる事につながっていく。大学における教養教育というのは,人間性を育み,生き甲斐を見いだすのが教養教育の内容であり,目的だと思う。その人間性を育む教育の一つとして,臨床人間学を提言したい。
b.臨床人間学の目的と特徴
臨床人間学の目的は,
1)生老病死,仏教でいう四苦を通して,人間について考えること。
2)個々人の価値観の違いに気づくこと。
3)個々人の人生について,生き甲斐について考えることが目的になる。
その特徴は,
1)抽象的な理論をもてあそぶのではなく,具体的な臨床例や臨床場面に生じる問題を具体的に判断する事に徹すること
2)予備知識や専門的知識を必要としないことである。 では,実際に総合科目『臨床人間学』の実際を以下に示してみたい。
2.臨床人間学の授業の実際
a.総合科目『臨床人間学』の教室へ
総合科目をともに担当している紙屋克子教授と,医学学系棟からでかける車内で,その日の細かな打ち合わせが行われる。教室に行く前に,学務に寄って,ワイヤレスマイクと3束ほど出席票をもらっていく。教室に着くと,なるべく教室を縦断するように集まり始めた学生の間を歩いて教壇の方へ行く。教室の前と後ろに班分けの一覧表を貼り出す。班分けは三百数十名の学生をできるだけ性や学群・学類や学年や出席率が平均に混じるように22班に分けている。班の学生数は14,5名である。学期ごとに班の編成を換えるようにしている。
b.授業の開始
時間きっかりに授業を始める。私語は少なくなってきたが,一人でも私語をしていれば注意する。「居眠りや欠席することは自由だが,私語をして他の学生の妨げになる自由はない,どうしても私語をしたければ教室の外へ直ちに出るように」といつも言っている。
c.課題提供
今日の課題は「代理母」である。不妊は,夫婦の約10%で見られる。この夫婦の卵子と精子で人工的に受精した受精卵を代理母の子宮内に入れて妊娠・分娩をしてもらうことがアメリカ合衆国で,日本人は約6百万円で行える。あなたは利用したいか。さらにこのテーマを考える上でいくつかの点について解説する。不妊の原因は夫と妻のそれぞれの病気によることが半々である。この内,妻の病気で,卵管が両側で閉塞する場合がある。このような夫婦では,通常の妊娠は起こらない。夫の病気で,精子の数が極端に少ないとか運動性が悪いなどの場合では,人工的な受精も困難なことがあるがそれがもし可能であれば,妻の子宮に受精卵を入れて,妊娠・分娩を行うことができる。これが通常の体外受精である。代理母に妊娠・分娩を契約で依頼することもある。夫婦の受精卵を代理母の子宮に入れた場合は,遺伝的には依頼した夫婦の子どもである。
問題としては,依頼された女性が子どもの引き渡しを拒む事件が起きた。生まれた子供に奇形などがあったり,依頼夫婦の期待に反した子どもである場合に,依頼夫婦が引き取りを拒んだことが起きた。依頼夫婦が引き取った子どもに愛情をもてない場合が起きた。代理母になる女性の大部分が貧困で,礼金目当てである。女性の子宮を借りるといった契約であるため,人間の尊厳に対する侵害と考えられる。生殖技術そのものが自然の摂理に反する。産まれた子どもに真実を告げた場合,子どもの受ける打撃は大きい。などの反対意見がある。一方,一部の不妊の夫婦にとって,この科学技術は福音である。契約を完全なものにすることで,考えられるあらゆるトラブルを未然に防ぎうる。自分たちの遺伝子をもった子どもがほしいという希望は本能に近いものがある。などの賛成意見がある,と解説する。
d.質疑
質問のある学生は挙手してください,と質疑を促す。日本では代理母がなぜ認められていないのか?代理母から産まれた子どもの実数はどのくらいか?告知を受けた子どもは実際どうだったか?代理母は将来産んだ子どもと会うことができるのか?代理母から産まれた子どもに異常は見つかっていないのか?斡旋する組織は公のものか,民間のものか?代理母をやって後悔している人はいるか,どの位いるのか?誰でも依頼できるのか,もし審査するとしたら誰が審査するのか,その基準はどんなものか?日本人とアメリカ人で費用に差があるのか,それはどういう根拠か? などの質問に答えられるものに答え,わからないものにそう伝えた。
e.少人数グループ討論
少人数のグループがそれぞれセミナールームなどに分かれ,司会者と記録係と報告係を互選して討論を始める。記録係は黒板などに討論の概要を書いていく。司会者は全員に発言を求め,討論の焦点を定め効率よく,全員が発言の機会をなるべく均等に持てるように配慮する。教官は手分けしてセミナールームを回る。教官に質問が出ることがあれば,それに答える。討論に教官は一般に大きく介入せずに,討論の進行が滞っている場合にアドバイスするにとどめる。次第に討論に慣れることがこの授業の目的なので,急がず自由討論のやり方に慣れ,少しずつそれを楽しむようになることを期待している,などと述べる。
f.総合討論
各セミナールームから決められた時間に元の教室に全員が戻ってくる。各班の報告係にその班での討論の概要を簡単に報告してもらう。全部の班の報告は時間の関係でできないので,幾つかの班の報告の後に,自由に発言を求める。ある意見に賛成や反対の者に挙手させる,などをしたりする。
g.教官の個人的意見
総合討論の最後に,教官が個人的意見を簡単明瞭に述べる。「科学技術の進歩で,生殖医療の様相は著しく変化している。技術を利用することが個人の自由であると放置することは,無責任で社会が大きく間違った方向に雪崩現象を起こしてしまっては,取り返しがつかなくなる。歯止めは時代とその社会でのコンセンサスで決められるべきである。その基準としては,自律性,公正,愛(良いことをなし,害をなさない)の規範のバランスが大切である。代理母は,母体の妊娠・分娩という機能を経済的に売買するもので,自然の摂理に反している。養子など不妊の夫婦に残された選択肢がないわけではない。」と個人的意見を述べた。ともに担当した紙屋克子教授も意見を述べられた。これらが個人的な意見であり授業の結論でないことを強調する。
h.感想文の提出
最後に,出席票の裏の240字分の原稿部分に,感想・意見を各自が書いて提出してもらい,授業は終了する。
i.学生の感想文の中から
「私は代理母に賛成だ。子どもを考えるとき,自分と自分の夫の子どもであると言うことは重要だと思う。DNAという言葉を使うと味気ないのだが,精神的に多くの問題を含んでいると思うのだ。自分たちの子どもを自分たちで産めない時に代理母を必要とする。子どもも自分のルーツとしてDNAに非常に関心を示すだろう。制度の改善の必要性はおおいにあると思うのだが,制度自体はあるべきだと思う。産まれた子どもの命を軽んじると言うことは全体を考えたときに問題だと思う。」「自分が代理母に頼もうとは思わないが,他人が頼むものに関しては,子どもが欲しいという気持ちも分からなくはないので特に反対はしない。皆は依頼者と子どもとの間の愛情について気にしていたが,私は代理母の人権の方が気になった。社会的地位の低い人は子ども生産機のようにあつかわれていいのか。」「私は女として,自分の気持ちだけで言えば子どもは絶対欲しいです。しかし生命の問題を金銭で扱うことには命の商品化につながると思う。代理母には良い点も悪い点もあるが,現代の科学ではその悪い所が限りない可能性を持つと思う。代理母さえいれば,10年後,100年後でも既に死んだ人の子どもを産めることになり,果ては人口バランスをくずすことにもなりかねない。子どもを持ちたいという気持ちを食欲や性欲と同列と思えば,これは耐えるべきである。代理母は反対である。」
j.授業に対するアンケート
最後の授業では無記名のアンケート調査を行い,授業の目的に対する達成度を5段階で問う。
_生老病死の四苦を通して人間について考える機会を持つことはできましたか。(平均4.29)
_個人個人の人の価値観の違いに気づきましたか。(平均4.60)
_個々人の(あなた自身の)人生について考える機会をもつことはできましたか。(平均4.23)
_人生を生きていく意義・生きがいについて考える機会をもつことはできましたか。(平均3.92)(数値は1998年度のもの)
自由に書いてもらった感想文に次のような文があった。
「生老病死という避けて通ることができない問題ながら,普段考えることを避けがちな問題を考えることができた。いつか訪れる,いつ訪れてもおかしくないことに対して自分の考えを現時点でまとめることができた。人によって考え方は異なるが,概して私たちは幸せであり,幸せな人の立場からしか考えられないと痛感した。弱者に対する考え方も養われたように思う。」
3.情意領域の教育としての教養教育〜テュートリアル制による授業
a.教養教育と専門教育
教養教育と専門教育の関係についても考えねばならないだろう。
教育の三つの大きなドメイン(domain)として,情意領域と認知領域と精神運動領域がある。情意領域とは態度と習慣。認知領域とは専門的な知識。精神運動領域は技術である。教養教育では情意領域の教育として,最初に学問に対する態度または学問の方法を学ぶこととその習慣化とが非常に重要な要素である。これは医学教育だけではなく,教育一般に通ずることだが,学問に対する態度,あるいは医学で言えば患者に対する態度,あるいは習慣というものが情意領域の教育であり,専門知識が認知領域であり,またその技術が精神運動領域の教育で,それぞれオーバーラップするところがあるが,最初は情意領域の教育が重要である。
b.医学専門学群の学生に対するテュートリアル制の試み
情意領域の教育の効果を上げるために,医学専門学群の学生に向けた教養教育では,テュートリアル(tutorial)制を取り入れている。
テュートリアルの目標は,
1)勉学へのモチベーションを高める
2)医療の心への理解を深める
3)学問の楽しさを感じる
4)学問への取組みかたが分かるの4点である。
少人数グループの行動目標(SBO)は自由討論形式にある。学生は,主体的,自主的に勉学や研究を行い,各自の研究,勉学の成果をレポートにまとめる。具体的には先程の臨床人間学の基本的な方法で,課題を出発点にする。そして問題点を抽出する。問題点の解決方法の計画を立てる。計画を各自が分担して研究し,追究する。討論を重ね,解決に迫りレポートにまとめる。ここではアイデアを出して,それに関して情報を集め,討論を重ねて解決に至るという学問の方法を学ぶのである。
学生はテューターがついて2〜3週間で一つの課題について追究する。1996年度から,医学専門学群の1年生に必修化されたが,以下のような手順で行われる。
1)全員集合の教室でテューターが課題を提供。
2)課題に関して少人数グループでまず最初のディスカッションを行う。 その際,テューターはあまり大きく介入しないことを原則にし,質問には答える。
3)学生はコンピューターを使って,自分の求める情報をサーチする。
4)つぎの週には,自分たちが調べた資料を持ち寄って,さらにディスカッションを深める。これを2ないし3週続ける。
5)最終的なレポートを提出する。
医学専門学群の学生の感想文から,
「これまで,私が高校や大学で学んできた事は,知識を学ぶ事であり,覚える事でした。だから,この授業のように自分の力で考えたり発表したり討論したりするのは,実に中学の『道徳』の時間以来ではないかと思い,新鮮に感じました。」「臨床人間学に出席して良かったと思った。このコースで学んだ事は,自分にとって新鮮で意味深いことが多かったように思う。自分はまだ医師としての自覚が全くといっていいほどなく,また医療に関する知識や技術も全くない。このコースで学んだことが役に立つのはまだ先の事だが,今の時点でこのようなことを学ぶのは大変意義のあることだと思う。将来自分は臨床医を希望しているが,その基礎がこの授業にあったと思えるかもしれないと思った。」といったポジティブな感想がよせられ,ネガティブな感想を書く人はほとんどいない。
年度末に行ったアンケートでは,勉学へのモチベーションがわいた,医療への心の理解が得られた,学問への取り組み方に慣れた,学間の楽しさを経験できたという評価が得られた。レポートは大変なようだが,取り組む過程でグループ学習や自己学習の習慣化が出来たと解釈している。
臨床人間学の授業は,医学専門学群で1994年からスタートしている,1996年からは総合科目として全学で行われている。出席率は,医学専門学群のテュートリアルは98%と大変高く,総合科目では70%から80%であった。
臨床人間学の特徴は,教官が結論をこうであると示すグイダクティック(didactic)な教育ではなく,学生が自分から見つけていくヒューリスティック(heuristic)アプローチ,そして自分から選択的に学んでいくエクレクティック(eclectic)ラーニングである。学生が主体的に参加する授業,学習という意味で,効果としても大きいのではないかと考えている。
4.おわりに
臨床人間学は,当初,医学生の人間性教育と患者中心医療の教育として考えられた。生老病死を通して人間を考える機会を持つことを目的とし,生老病死に直接関連する判断を下す必要のある臨床症例や場面を課題として提供し,少人数グループでの自由討論を主体とした,学生主導の主体的・選択的・発見的学習を目指した教育方法論である。2年間の医学専門学群と医科学研究科での選択授業の後,医学専門学群新入生を対象とした必須の授業と全学を対象とした選択の総合科目となった。1999年度筑波大学の総合科目で最も多い学生326人が選択する授業になった。また,1999年度全学学類専門学群代表者会議と教育課程専門委員会で行った授業に関する全学の学生アンケート調査の結果,この授業が学生の支持で第1位の授業に選出された。
初等・中等教育や家庭教育における「心の教育」が声高に語られ,大学大綱化後の教養教育再評価の現在,教育における人間性教育の方法として,『臨床人間学』の位置や価値がこれから問われて行くに違いない。
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日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
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