生物教育における生命の尊厳の扱いについて

Teaching of Respect for Life in Biology Education

鶴田一司,メイサーダリル   Kazushi Tsuruta & Darryl Macer
筑波大学生物科学系 Institute of Biological Sciences

pp. 105-106 in 日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年。


1. はじめに

 最近,安楽死,脳死による臓器移植の問題,延命治療,遺伝子技術,といった社会的問題や,いじめによる自殺,子が親を殺したり,人や動物を簡単に殺してしまうといった教育的問題など,近年の社会状況の中で,子どもたちは,いのちの大切さを見失い,自らのいのちに対しても鈍感になってきている。そのような中で,1996年7月に,中央教育審議会によって,「21世紀を展望したわが国の教育の在り方について」として第一次答申が発表された。そこで重点的留意事項の一つとして,豊かな人間性とともにたくましく生きるための心身の健康が不可欠であるとして,「生きる力」の教育が強調された。

 「生きる力」とは,自ら学び,考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力,また自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や,感動する心など,豊かな人間性の事であると要約することができる。その「生きる力」を養うためには,『生命を大切にし,人権を尊重する心などの基本的な倫理観,ー中略ーが「生きる力」を形作る大切な柱である。』(中央教育審議会第一次答申,1996)と述べている。つまり,子ども達自身が,自らの「いのち」と,自分をとりまく周りの「いのち」というものを自覚して,いかにして自分の「いのち」を最大限に他者の「いのち」との関連のなかで生かすことができるかを,子ども達自身に考えさせることが必要になってくる。

 そうしたことから,教育現場では,「いのちの大切さ,尊さをどのように教えたら良いか」ということが問題になってきている(日本教育学会,1996)。身の周りの自然や人とかかわり,ともに生きていくことを考える「いのち」についての教育は学校教育のあらゆる教育活動の中で,計画的,系統的に取り扱わなければならず,これからの教育の大きな課題であると考えられる。そして,そのための実践は,「道徳」を中心として行なわれ,「理科」においても,小学生を対象としては研究が進められている。しかし,中学生や高校生を対象として具体的にどのように扱ったら良いかを研究されている「理科」の分野は少ない。「いのちの大切さ,尊さ」といった生命観とそれを中心とする価値観を持つことは,これからの人間形成にとって重要であり,生き物を学習の対象とする「理科」の中でも,意識しなければならない観点であると考えられる。また,高等学校学習指導要領解説(1989)「生物_A」の目標のなかで,『「科学的自然観を養う」とは,ー中略ー生命を尊重する態度や,地球環境の保全への関心などを育成することを指している。』と述べ,「いのち」の大切さを養う必要があると言っている。

2. 国際生命倫理調査

 本調査は、オーストラリア(A)、香港、インド、イスラエル、ニュージーランド(NZ)、フィリピン、ロシア(R)、シンガポール、タイでほぼ同時期に行われた国際生命倫理調査(メイサー、他)の一部として、一般市民、医学生を対象として1993年春、日本で行われた(メイサー、加藤)。

調査は、生命倫理とバイオテクノロジーなどの科学技術に関するもので、回答形式は大別して、複数の選択肢から選ぶもの、またそれに付随して意見や考えを述べるもの、さらに完全な自由回答を記述するもの(35問)の三種類である(全150問)。このなかで、「自然」、「いのち」についてのイメージや考えを、文章や絵などで自由に表現してもらうという非常に興味深い質問を行った。

「いのち」に関しては、大切なもの、生死、神聖さ、赤ん坊、生き物、健康などを挙げる人が多く、命は地球より重いとの回答も目立った。日本以外の国では「いのち」という言葉の代わりに"life"(生命、人生、生活などの意)を用いたため、楽しみ、苦しみ、活動などという答えもあった。調査結果全体については、拙著「Bioethics for the People by the People」(英語版、参考文献1)を参照されたい。

3. 日本の高校生の「いのち」の捉え方

高校生を対象として,「いのち」はどのように捉えられているかを,特に高校生物の生態系と物質循環という単元の中の,食物連鎖の項を中心として実態調査を行った。食物連鎖は「生物_B」の内容であるが,私たち,人間や地球上の生物の生命は一つ一つが,かけがえのないものであり,その生命を維持していくために私たちは他の生物を捕食して生きていかなければならない。しかし,その捕食されている生物もまたかけがえのない一つの生命である。食物連鎖を通して,そのことを子ども自身に実感させることによって,生かされ生きている自分の生命はもちろんのこと,自分を取り巻く多種多様な生命についても,その尊さを感じることができ,「生きる力」を養うことができるのではないかと考えられる。そのことを実証するために,実態を調査し分析することで,この分野で生命を尊ぶ心を養う意味が把握できると考えた。

 生命倫理教育ネットワークの先生方のご協力により、以下の高等学校でアンケート調査を行い、回答を得た。浦和第一女子高等学校(214)、水戸第一女子高等学校(109)、東横学園女子高等学校(37)、羽田高等学校(48)、足立新田高等学校(13)、逗子開成高等学校(39)。

「いのち」という言葉を聞いて心に浮かぶ様々なイメージや、「いのち」について考えていることが文章や絵で表現された。

生きていくために他の生物を食べるとき、約半数が人間の命のほうが大切だと回答、他の生物の「いのち」のほうが大切としたのは7%しかなかった。3分の1はどちらも大切とし、人間の命のほうが大切だと回答したのは男子のほうが多かった。他の生物に食料として食べられてもいいと回答したのは6%だけで、半数が絶対嫌だと答えた。この時も人間の命のほうが大切としたのは男子のほうが多く(女子が3分の1に対し男子は半数)、12%が他の生物の「いのち」のほうが大切と回答した。また、70%が今までに一度も菜食主義者になろうと考えたことはなく、「一、二回」と答えたのは12%、「たまに」は12%、「よくある」と答えたのは4%だった。

魚や昆虫のように、その多くが生まれてすぐに死んでしまう「いのち」も、3分の2が「必要」と答え、8%が「必要ない」、27%が「わからない」と回答した。そして、「生き残った「いのち」のほうが大切」としたのは3分の1、「死んでいった「いのち」のほうが大切」としたのは3%、「どちらも同じ」が半数(男子のほうが女子よりも多い)、「わからない」が13%だった。

 「生きる力」を養うために「いのち」を大切にし「いのち」を尊重することは重要である。生きるために他の生物を食べるとき、その生物の「いのち」について考えると答えた男子が3分の1だったのに対し、半数の女子がそう回答した。生物を尊重することにおいての「いのち」の役割を探るためにはさらなる調査研究が必要である。

4. 主要参考文献

中央教育審議会(1996)『第十五期中央教育審議会第一次答申』
文部省(1989)『高等学校学習指導要領解説 理科編 理数編』
中島雄次郎(1985)『生物教育における”生命観”の問題』(生物教育)第25巻,第3・4号,p81-84。
加藤佳子・瀬戸武司 (1996)『小学校における生命を尊重する態度の育成に関する基礎的研究』(生物教育)第36巻,第1号,p2-11.
Darryl Macer, Bioethics for the People by the People (Eubios Ethics Institute 1994).
Darryl Macer et al. Bioethics in High Schools in Australia, Japan and New Zealand (Eubios Ethics Institute 1996).
森岡正博 (1988) 『生命学への招待−バイオエシックスを超えて』勁草書房 269頁。
田中千草(1997)『いのちを知り,いのちを学び,いのちを学びあう』 (学校運営研究)3月号,pp.86-89。
横山利弘(1997)『「心の教育」を「生きる力の育成」の中にどう位置づけるか』(学校経営)9月号,p14_21。
大西正倫(1997)『いのちの教育の必要性と困難性』(教育学研究,日本教育学会第55 回大会報告)第64巻,第1号,p16-30.
Please send comments to Email < Macer@biol.tsukuba.ac.jp >.

日本における高校での生命倫理教育、メイサー ダリル(編)、ユウバイオス倫理研究会 2000年
学校における生命倫理教育ネットワーク
ユウバイオス倫理研究会(http://eubios.info/indexJ.html)